美しいワイオミング州の山々。ふたりのカウボーイが羊を放牧している。ワイルドで牧歌的な風景に奏でられるのは、彼らの愛の物語。男同士の関係を描きながら、これほどまでに万人を感動させる映画は、過去になかったかもしれない。イニスとジャックは、ブロークバック・マウンテンで燃え上がった愛を、その後、失うことはなかった。ともに妻を迎え、子どもを授かっても…。
物語は1963年に始まり、舞台は保守的な中西部なので、当然、厳しい現実が待っている。そして、妻たちの悲しみもある。アン・リー監督は、それらすべてを過不足なく描き、主人公ふたりの愛を際立たせていく。何より、演技がすばらしい。イニス役のヒース・レジャーは、素顔の本人とは別の、絞り出すような低音の声で男くささを前面に出しつつ、内に燃えたぎるジャックへの愛を表現する。ふたりの再会シーンでは、衝撃的なまでに激しい愛がぶつかり合うのだ。
誰かを真剣に愛し、その愛を長い間、心に育んだ経験のある人なら、本作の愛に打ちのめされるはず。静かだが、あまりにも切ないラストシーンは目に焼き付いて離れない。(斉藤博昭)
大自然のパノラマの中で。
★★★★★
シナリオコンテンツより、諸手を挙げて絶賛する美的ではないですが、雄大なパノラマを背景に美しく感じさせるように描いています。
こういった類のものは、表現の仕方によっては、惨たんたるひどいものとなってしまうリスクがあり、それは紙一重の事象だと思います。
それに、笑いでごまかすものが多い中で、あるひとつの形としてヒューマンドラマに仕上げたところは評価できると思います。
冒頭より”ワイオミング、ブロークバック・マウンテン”の自然は、ワイルドでありつつも、瑞々しいいのちを映し出しており、また西部のカウボーイという古き良き時代の朴訥としたなかにナイスガイを見出すことにより、雰囲気を盛り上げています。
お互いが子どもを授かる家庭を持ちつつ、その行為は妻と子どものことを考えると、あまりにも奔放極まり、自分勝手なこととして決して許されることではないと思います。
今は亡きヒース・レジャーは、「ダークナイト」のジョーカー役として出演しており、またジェイク・ジレンホールは、「プリンス・オブ・ペルシャ/時間の砂」でダスタン王子として主演していました。
アン・ハサウェイはこの作品ではあくまでも脇役に徹しています。
二度と起こらない、素晴らしい自然とキャストの化学反応
★★★★★
アン・リーという監督は耽美的に流れるきらいはあるものの、こういった抒情的な作品を撮るのがとても上手い。今回も素晴らしい自然とキャスト達の二度と起こらない化学反応を見事にフィルムに収めている。
言うまでも無く、タイトルとなっているブロークバック・マウンテンはこの映画のもう一人の主役である。この雄大な風景を抜きにしてこの物語は成立し得ない。そして素晴らしいキャスト達。主演の二人はもちろんの事、彼らの妻を演じたミシェル・ウィリアムズとアン・ハザウェイには良い意味で大きく裏切られた。ミシェルはこの物語での最大の被害者(本当は4人全員が被害者だと思うが)とも言える生活に疲れていく主婦を見事に演じきっているし、アン・ハザウェイに関してはこの映画で私の印象は180°変わった。監督のコメントにもあるが、終盤の電話のシーン、冷徹さと慈悲、怒りと憐み、憎しみと悲しみ、反発と共感…相反する非常に複雑な心情を抑えた演技で見事に表現してくれている。あのシーンを観客に納得させるのは本当に難しいと思う。
ラストシーンのイニスを観ていて思った。もしやり直せたら、彼は違う道を選ぶだろうか?終始煮え切らないイニスだが、彼をそこまで頑なにした「普通」の社会の重圧。(そしてそれは同性愛に限らず今もそこかしこにある)それを思うと彼がまた同じ道を歩んだとしても、いったい誰が彼を責める事が出来るだろう?
そして最後にヒース・レジャー。素晴らしい俳優をまた一人亡くした。彼の繊細で鋭い演技をもう観られない事を本当に残念に思う。
愛情のベクトルが同性に向いていた。それだけのことなんだね。
★★★★☆
バイセクシャルを描いた話と聞き長らく遠巻きにして来たのですが、遂に観ました。
彼らの愛情が、所謂一般人が異性に抱くそれと何ら変わりないことが良く分かりました。
同時に、それを世間の偏見から隠さなくてはならない彼らの苦しみや悲しみが、少しは
分かった気がします。
と言うのも、テレビの向こうの芸能人ならともかく、もしも身近な友人や身内にカミング
アウトされたら、己の内から偏見を排除して普通に接することができるかと聞かれると、
う〜んと考え込んでしまうからです。複雑な問題だよね、くらいにして、自分は傍観者で
いたいというのが偽らざる気持ちです。
そして、こういう作品が数々の賞を受けるのはもちろん良いことである一方、話題になる
こと自体が、同性愛を奇異なことと捉える世間の認識を象徴しているように思います。
それにしても、ヒースとジェイクの迫真の演技には敬意を表します。ホント、俳優って凄い。
苦しみを奥に奥に綴じ込めて
★★★★★
世間一般的に、なかなか理解してもらえないこと。
許してもらえないこと。
自分だって、できたら切り替えたい。
でも、どうしても!できない。
ああもどかしい。
身も心も揉みつつ、気づけばもはや数十年。
そういう習慣や思考・行動パターンって、
同性愛に限らず、いろいろあるんだよ。
だから人間なんだって言ったら、
「そんあの単に開き直ってるだけ、甘えてるだけ」
ってアッサリ切り捨てちゃう人の方が、
よっぽどオカシイと思ってる私。
イニスのラストの行動の仕方がとても静的だったのが
余計に悲しく、とても印象に残った。
ヒース・レジャーが若死にしてしまったのは、
若いのにこんな老成した役をやり通してしまった
からなのか。
未だに悲しく、さびしい。
愛というもののままならなさ、抜き差しならなさ…。それでも「生きる」ことと「愛する」ことは不可分なはずで。どれだけ破壊的であったとしても。
★★★★★
自分はゲイではないので(と言いつつPSBとかErasureやJimmy Somervilleを聴きまくっている変な人なのだがw)、こういった世界観を完全に理解することは出来ないと思いつつ、でも久しぶりにDVDで観てすごく感動したので、感想を書いてみることにした。
何と言うか、すごく「大きい」。その、愛というもののままならなさというか、抜き差しならなさが。こんなにも個人の人生を揺さぶったり、根こそぎ破壊してしまうようなパワーを持ちつつ、でもそれなしでは生きていけないというか、いや、あえてそれと共に生きることを選択してしまった二人の物語、ということなんだけど…。世間の人々の大多数はもっと無難な生き方を選択してるという現実と、そうじゃない生き方を選ばざるを得ない人達も存在する、というだけの話かも知れないけれど。
自分はこの映画を劇場公開時に嫁さんと観に行ったのだ。で、その後二回目は一人で観に行って、離婚して二年経った今三回目を観たのだけど…いや、何も分かってなかったわwwwと素直に思った。以前は、「男同士の愛を追求したいというダンナのエゴが幸せな夫婦生活を破壊して…、奥さんかわいそう。」みたいに感じてたのだけど、今度は「そもそも結婚したらアカンやろ、こんな二人はw」とか感じてしまった。でも、結婚しちゃうのである。自分の心の深く暗い部分の本当の声に耳をふさいで、「この人と結婚したら幸せになれる。社会的に真っ当な存在になれるに違いない」と感じて。でも、そのことがまやかしに過ぎないと気付くのにそんなに時間はかからない、というかそれを続けていくのは生きながら死んでいるようなものだ、と現実は否応無しに真実と向き合うことを突きつけてくる。
で、結局奥さんと別れたのは仕方ないとして、でもその後自分が本当に愛する相手と添い遂げることも不可能で、この場合は主人公の内面にある「死に対する恐怖」がそれをさせないのだけど、つまり互いに相手を心から求め合っていたとしても二人が一緒になることは「世の中」が許さないという状況に身を置くうちにどんどん歳をとってそのうちどちらかが死んでしまって…という。
つまり、最大の敵は「社会」であって我々はそれとの戦いにおいて自らの生を勝ち取っていくことが果たしてどのように可能なのか、という話になる。で、難しいのは一体何が「勝ち」で何が「負け」なのかを判断することは誰にも出来ない、ということなのだ。私に言えるのは、お互い嫁さんを裏切りつつもブロークバック・マウンテンで二人きりで過ごしている間、彼らは確実に「生きて」いただろう、ということだけである。
久しぶりに観終わった後、無性に宇多田ヒカルの"Beautiful World(『エヴァ・破』で使われた方のミックス)"と、坂本真綾の『走る』が聴きたくなった。「♪もしも願い一つだけ叶うなら 君の側で眠らせて どんな場所でもいいよ」と、「♪探しに行こう 二人だけのその場所を もっと愛し合うために」って。