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国家・個人・宗教 ~ 近現代日本の精神 (講談社現代新書)

価格: ¥756
カテゴリ: 新書
ブランド: 講談社
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曖昧な日本の公共 ★☆☆☆☆
あまり辛口な批評は書くべきではないと思うのですが、魅力的なタイトルと内容とのズレを指摘するのは、無駄ではないかも、と思い、敢えて投稿します。

著者の論旨は国家/個人の二元論を超えて市民社会成立のための「公共」という概念を再検討する、ということなのですが、この論旨にブレがありすぎるのです。横井小楠が始めてこの概念を紹介した、と紹介しつつ、横井の著作における「公共」の分析はわずか2ページ。その大半は単なる引用に終わり、分析が欠落。一方、後のページの、ルソーやハバーマスの公共概念の方が重点が置かれてしまっています。内村の不敬事件の分析(57)も、『私』と『公』の分離が出来ていれば起こらなかった、という趣旨なのですが、この二項対立こそ、著者自らが超越しようと提案したのでは?更に、ここでは宗教を『私』の領域に入れておきながら、後では、公教育に宗教の復活を(172)といわれるので、読者としては混乱せざるを得ません。また、市民社会と国家の違いも曖昧で、著者の説く「領域主権論」は、単に領域が広い(国家)か狭い(市民社会)か、のように取れてしまいます。しかし、この違いは、主題にとっては根本的問題となる筈で、緻密な定義と分析の欠如は致命的なのではないでしょうか?

定義といえば、「近代日本に『個人』と『国家』の間に公共を確立していく可能性があったとすれば、それは”自発的”な中間集団を作っていった新宗教グループであっただろう。」(68)とありますが、これはかなり杜撰では?『個人』と『国家』の間には、無限にいろいろな自発的な中間集団があるのではないでしょうか?それは、頼母子講や漁業組合のような直接の利益を共有する集団かもしれなければ、共産党やみんなの党のような政治集団かもしれず、県民会や学歴による派閥のようなものも、ここに入るのではないでしょうか。あるいは、それらが「公共」ではないとすれば、何故なのか、を問うていけば、公共の定義も奥深くなっていったことでしょう。大変残念な本でした。
現状認識に課題 ★★☆☆☆
あえて辛口な評価をする。

著者の思想に関して特に異論を挟む余地はない。個人と国家の間に「公共」の概念を挟むことは何らかの形で必要であろう。

ただし現状認識に関しては首をかしげざるを得ない部分が見受けられる。例えば教育基本法の改正に反対する部分で

「現代の教育が病んでいることは事実である」(175ページ)

とあるが「病んでいる」とはいかなる意味なのか、本書では具体的な説明がなされていない。まさか著者はメディアで垂れ流されている「現代子どもの『心の闇』」みたいなものをそのまま受け入れているわけではないと思うが。

教育基本法を巡っては右派は教育基本法が個人の自由を過度に強調しているから教育が病んでいるのだと主張し、左派は教育基本法の理念を生かしていないからこそ、教育が病んでいるのだと主張するが、本当に教育が「病んで」いるのか、そして教育基本法とそのような「問題」に関連性があるのかがまず問われなければならない。

また、著者は宗教教育の必要性を訴える。私自身その主張に反対はしないのだが、ここでも首をかしげる部分がある。それが

「宗教軽視と宗教への無知は容易に『ニヒリズム』の思想へと結びつく」(170ページ)

という文章である。しかしそもそも「宗教軽視」や「宗教への無知」とはいかなる状況を指すのだろうか。著者は今の日本人は、「宗教を軽視しており、かつ宗教に対して無知である」と考えているようであるが、何を根拠にそのように考えているのだろうか。そのような社会調査があるのであれば示して欲しいものである。また「宗教軽視」や「宗教への無知」が「ニヒリズム」と本当に結びついているのだろうか。社会学や、心理学の観点から実証されているのかが問われなければならないだろう。

また逆に宗教教育を行っている国では、「ニヒリズム」は日本ほど深刻ではないということなのだろうか。(どこの国でも似たり寄ったりだと思うが)そうであるならそのようなデータを示して欲しい。

つまり著者のこの主張は理系の学問でいえば「仮説」のものに過ぎない。あえて悪い言い方をしてしまえば「思いこみ」である。

激励の意味で☆2つ。
“宗教”の役割とは ★★★★★
国家と個人、宗教をめぐって、また近代日本の国家と社会とをめぐって、その論点は多岐にわたる。そうした議論において、本書が通り一遍の市民社会論や公共性論にとどまらぬ意味を有しているのは、国家と個人の二元論を克服する途としての「宗教」の問題を正面に据えているためである。

(本書のキーワードの一つとなっている「自我の再生」は、例えば上田閑照の「我は、我ならずして、我なり」という「私」論を思い起こさせるに充分である。こうした事実は、著者が西田幾多郎や田辺元を批判的に取り上げている点を踏まえれば、なかなか興味深い。)

リベラリズムとナショナリズムとの狭間で彷徨しつつも、カルトチックな宗教にも近寄れないでいる人にとっては、ここで論じられている「宗教」論が一つの思考のヒントになるかも知れない。
公共の場で宗教を論じなおすために ★★★★☆
主に近現代の日本における事件や制度、各種の思想を解説しながら、今後の「宗教」の意義について公共哲学的に論じた問題定義的な作品。(近)過去と現在を行き来しながら、「個人」が愛国心という公的権力が課してくる「宗教」的な心情にからめとられとられずに、他方で自己中心的な超越感覚に没入してしまうこともなく、いかにして国境や時代をこえた人々への思慮を自律的に育んでいく「公共」の精神(スピリチュアリティ)を涵養できるか、という問題がくり返し問われる。
明治期における開明的な社会思想と国家神道の相剋、新宗教の民力とそれに対する国家による弾圧、西田哲学と南原繁の国家論の可能性と限界、オウム事件に見る戦後日本の宗教に対する見識の弱体さ、昨今のスピリチュアリティ・ブームと社会の右傾化の共通性(「宗教」なき日本の「宗教」性の現出形態の二方向)、日本国憲法の思想、ハーバマスの公共哲学、市民社会論、環境倫理学、等々、220ページほどの著作ながら取り上げられるネタはきわめて多彩である。
話題がちょっと拡散ぎみかな、という印象もあるが、個々の議論はどれも要点を得ていて思考の整理に役立つ。宗教教育や靖国問題など、「宗教」と(の)「公共性」が問われるテーマについて討論する際のたたき台になってくれそうな本である。