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日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

価格: ¥821
カテゴリ: 新書
ブランド: 筑摩書房
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比較的恵まれた現世を生きているからかもしれないが ★★★★★
 読んでいて大変感銘を受けた。1996年に発行され、既に24刷発行となっていることも納得がいく。

 本書を読んで、自分がいかに宗教という言葉に無自覚であったか思い知らされた。僕自身も「日本人は無宗教であり、それが良い点である」と言ってきたが、そもそも その「宗教」という言葉の定義をしてこなかったことに気がつかされたわけだ。著者の言うとおり、正月には神社にお参りに行き、墓参りも行う自分自身とは、十分に「宗教的」なわけである。

 但し、だからといって、いわゆる教義宗教(著者の言葉では「創唱宗教」)への、警戒感が無くなったわけでもない。特に一神教を巡って死んだ人の数は歴史的には膨大である。相手や自分を殺しかねない教義というものにはどうしても賛同出来ないからだ。現世ではなく あの世にユートピアを見出す発想自体にも抵抗感があるが、これは僕自身が比較的恵まれた現世を送る事が出来ているからかもしれない。

 宗教は人間にとって死活的に大事だった時期がある。昔は、物事を理解するための「物語」としての宗教もあったはずだ。翻って今の世界を見渡すと、やはり教義宗教が死活的に大事な国もあることも確かだ。その中で 教義宗教に不感症(若しくは極端に敏感とも言えるか?)である僕ら日本人のあり方というものはあるのだろう。それを考えるヒントになった点で大いに本書には感謝している次第だ。
日本人の宗教は「世間教」である ★★★★★
「日本人の中には無宗教を標榜する人が少なくない。しかし本当に宗教を否定したり、考え抜いたうえでの無神論者は極めて少ない。p8」それはなぜか、というのが本書のテーマである。
 著者の考察によれば、宗教にはキリスト教やイスラム教のように創始者がはっきりしている「創唱宗教」と自然発生的な「自然宗教」の二種類があって、日本人が「無宗教」であるというのは特定の創唱宗教に帰依していない、ということを意味している。実際には日本人の宗教心は欧米に比して決して引けをとらず、それが古来、ムラを最小単位とする日本の社会を維持してきた。
 日本人の「宗教」を仮に「世間教」と名づけるなら、この「世間教」は、中世に武家階級に浸透した朱子学(儒教)や、明治政府の国家神道など、国家からの介入によってしばしば危機に瀕してきた。このあたりの考察はやや難解ではあるが、きわめて興味深い。
 戦後60余年、都市化が進むなかで徐々にムラが消滅し、いまやマジョリティはムラの「掟」から切り離された社会で生きている。ムラの掟こそが世間教の教義であったことを考えると、日本人はいま、ほんとうに宗教も儀礼も道徳も、なにもかも失くそうとしているのかもしれない。「世間」とは何か (講談社現代新書)もあわせてお勧めしたい。 
日本人の宗教観を考えてみる。本当に「無宗教」なのか? ★★★★★
海外の知人からよく日本人の宗教観について聞かれるが、その度にこの本を読んでおいて良かったと思う。この本を読む前は何の違和感も抱かず「無宗教」という言葉を使って答えていたが、この本を読んでからは、自分を含む多くの日本人が持つまた日本の風土や慣習に深く根ざした宗教観を簡単に説明できるようになった。

本書は「そもそも宗教ってなんだろう」「日本人は本当に『無宗教』なのか?」という基本的なところから始まる。そして「無宗教」を「創唱宗教に対する無関心」と定義した上で、どのように日本人がその関心を失っていったかを中世史から現代史までを紐解き、簡潔なる解説を試みる。

特定の経典等には目も通さないが、山中に垣間見る白い綱が絞められた古木には畏敬の念を感じ、お地蔵さんには手を合わせる。普段は自然にしている自分の行動も、外部から問われると素直に説明できない。そんな自分達の宗教観を育んできた日本の風土とまたその宗教観を曖昧にしてきた歴史を学び、宗教観をいまいちど見返すことを手伝ってくれる良書。
優れた編集者による題名が秀逸な一冊! ★★★☆☆
 友人たちと月に1回、開催している読書会の課題本として読んだ。

 日本人の希薄な宗教意識を「明治維新政府の敷いた国策が原因」と、すべてをそこに求めるのは、納得できない。遠因をそこに求めることもできる。しかし、あまりにも、時代はるかだ。

 現代日本人の無宗教感覚の直近の理由は、良くも悪くも国家神道を規程し、明治維新政府の敷いた国策が、突然に断ち切られた「大東亜戦争の敗北に伴う国家神道の完全否定」だと思う。

 神社仏閣への信仰を伴う崇敬が劇的に断ち切られた昭和20年8月。ここが、日本人無宗教化の直近の原因ではないのか。一切触れていないだけに、そう反論したくなる。

 この本が売れた理由…それは、優れた編集者による、本の題名だ。「え?僕たちって、無宗教だったっけ?」と、自問自答の末に書店で手にとってしまう。そういう優れた題名のせいだと思う。
明治の外教制限に対する潜在的恐怖が日本人の「無宗教」の原因では? ★★★★★
著者は、“日本人の宗教意識である「無宗教(特定の宗派の信者ではないという意味)」の原因は「自然宗教(特定の開祖がなく、儀礼が公共的に行われ、法・政治・経済・道徳・慣習などと密接にかかわる自然発生的な宗教だが、アニミズムやシャーマニズムのような原始宗教ではない)」であり、その「自然宗教」に(寺請檀家制度を機能させる)仏教的色彩を施したのが「葬式仏教」(p.66)に他ならない。”と述べる。
しかし、著者自身が指摘する“維新政府の宗教政策(「創唱宗教」であるキリスト教等の外教制限)を担当した井上毅が、<外教の「内想(個人の信仰)」は許すが、「外顕(布教や葬式等の宗教儀式」は禁止する>という方策を明治憲法に盛り込んだ(p.78)”こと(お上の強い意志)が、外教である仏教にまで及ぶことを怖れた近代日本人の潜在意識に絶対安全な「無宗教」という宗教意識を植え付けたと考えることもできる。

このようにして、警戒心から宗教に対する人々の関心を遠ざけた結果、慈愛の心や寛容の精神そして兄弟姉妹愛といった心の方面を受け持つところがどこにもなくなってしまった。それが、夫婦や親子や兄弟の間など家庭内の対立から始まって地域社会や国団体さらに国際間の対立を激化させている。日本でも1970年代までは残っていた「徳育」と呼ばれた心の教育(モラルの育成)が現代では等閑視されている。この状況を打開するために最も重要なのは教育である。かつての宗教に代わって教育が心の方面を受け持つことが急務である。
ただ、何を手本と仰ぐべきか? 現代の仏教として東南アジアから生まれつつあるEngaged Buddhismが一つの指針になるのではないだろうか?