本気で江戸時代は見直したほうがよいと感じます
★★★★★
「環太平洋の時代」(第1章)「漂流民たちの見た世界」(第2章)などは、ペリー前史として世界がどう動いていたのか、世界が日本をどう見ていたのか知るとても興味深い内容となっている。突然世界と出会ったのではないし、狼狽していただけではないことを知る必要を痛感した。ここまでが、教科書や通俗書にはあまり触れられていない点。
「世論政治としての江戸時代」(第4章)「天保という時代」(第5章)などは、地味に通説を見直している。大塩平八郎の抜け米斡旋、「大塩焼け」の意味、水野忠邦の再評価など、興味本位で通説・俗説を裏返すのではなく、地道な成果のもとに事の真相を見つめている。本気で見直しをしてみるほうがよいと感じる点。
前巻につづき、教科書・ドラマで固められた江戸時代像を見直す好著。
開国への経緯をつぶさに知ることができる労作
★★★☆☆
小学館の「日本の歴史」もそろそろ大詰めに近づいた。今回は19世紀の江戸時代を取り扱っている。
本書ではまず西欧、ロシア、米国などが日本に押し寄せてくる環太平洋の時代のなかにあって、露西亜との北方領土画定のせめぎあい、大黒屋光太夫や高田屋嘉兵衛などの漂流民や人質外交戦においても、我が国がそれなりに「帝国」としての存在感を示して列強諸国の圧力に耐えたことが指摘される。
また江戸時代がけっして幕府の専制独裁の世の中ではなく、ルールにのっとった建策はかなりの程度まで受け入れられ採用された民主的?なシステムをもっていたこと、またこの潮流が幕末のペリー来航の際のオープンな開国論議に引き継がれていたこと。
庶民の正義の味方として高く評価されている大塩平八郎が、その裏面では水戸藩に対して特別の好意を示して米価の引き上げにつながるような便宜を図っていること、天保の改革で風俗を取り締まって倹約を断行した老中水野忠邦はもっと再評価されるべきであること。
さらにはそもそも百姓もある時期までは一本差しなら武装が認められており、高杉晋作の奇兵隊以前に、江戸市中に散在した道場主やメンバーの大半、近藤勇の新撰組やその前身の浪士組のメンバーの大半が武士ではなく、もっぱら百姓や神主などの平民であったこと。
そしてその歴史と実績が幕末に物をいい、かれら「草莽の庶民剣士」こそが明治維新の立役者であったことなどが、きわめて実証的に語られる。我が国がどのような経緯で開国するに至ったかをつぶさに知ることができる労作である。
徳川国家の新たなる一面
★★★★★
本書は江戸時代後半、特に18世紀後期から19世紀中葉の幕末開国に至る、徳川の世が国家として一つの成熟を迎えた時期をとらえて、これまで歴史研究者たちに正面から読み込まれてこなかった史料を再発掘しつつ、徳川国家の知られざる側面に光をあて、そのイメージの刷新を目ざす試論の書である。
興味深いトピックはいくつもあるが、とくに以下の三点が秀逸。
「帝国」としての近世日本
世論政治としての江戸時代
庶民剣士の時代
江湖に広くお薦めする次第。
「鎖国」がないなら「開国」はどうなる?
★★★★★
同シリーズの全集 日本の歴史 9 「鎖国」という外交 (全集 日本の歴史)に代表されるように、現在では「鎖国」という概念や用語は解体されている。その代りに、西欧の世界分割に対抗し、幕府が人の移動を制限し、自主的に外交相手を制限し、海外情報を取捨選択した「海禁」政策という概念が少なくとも学術の世界では用いられている。
すると、江戸時代の「外交」や「開国」はどういう扱いになるのだろうか。そんな疑問に対する答えが本書である。
西欧の世界分割が最終段階に進む中、太平洋の列強の分割にむしろ積極的に日本は参加し、特にロシアとの国境画定につばぜり合いを演じ、世界有数の「帝国」と認識されており、また日本国内でもその認識がもたれ、近代ナショナリズムに通じたという。それは大黒屋光太夫や津太夫らの漂流民の稀有なエピソードなどから導き出される。
そしてイギリス・アメリカの覇権が確立する中、ついに幕府はオランダ・清以外との国交を開き、「開国」に至ることを決意する。それは困難ながらも、自主独立を守るための方策であった。
他にも当時でも世論が重視されていたり、庶民が剣士となることができたことを論証し、大塩平八郎や水野忠邦の評価に新解釈を示すなど、江戸時代の認識を一変させる刺激的な知的興奮に満ちた一冊である。