誰にでも語れるが誰も本質は分からない。心の問題に科学的理性で切り込む力作
★★★★★
気鋭の精神科医、斉藤環氏が昨今の心理学ブームに対して警鐘を鳴らした一冊です。
私は4つの先進国で生活をしてきましたが、豊かになり選択肢が増えるにつれ、逆に悩みが増え心の不安定さが
増していくというのは国や民族によらず世界共通の事のようです(もちろんそれだけが理由と言うほど単純な問題ではありませんが)。
ただ日本が他の国と決定的に違っているのは、こうした事がワイドショーを始めとして非常にカジュアルに語られていると言う事だと思います。
PTSD、トラウマ、はてはゲーム脳のような荒唐無稽なものまであらゆるメディアにおいて芸能人のゴシップと同列に扱われているのが
日本の現状です。こうしたややもすると安易とも言える心の問題の氾濫に対して、著者は精神科医としての科学的な見識と、
膨大なフィールドワークを元にその背後に潜む危うさを問いかけようとしています。
私はカウンセリングや精神分析を否定する立場ではありません。それによって救われる人が実際にいるわけですから必要であることは
事実なのだと思います。ただし心について語る事があまりにカジュアルになる事は、世の中やひいては本当に苦しんでいる人々の
不安定さをさらに増す事になるのではと心配しています。
自分を良く知りもしない人間に、まるで全てを理解したかのように語られ、分類される居心地の悪さ。それは人が本来耐えられる
ものなのでしょうか?
こうした私の疑問にこの作品は簡潔に信頼できる冷静さをもって答えてくれているように思います。
中途半端な主張になってしまったのが残念
★★★★☆
著者の斎藤環氏は揺れている。精神科医で、ラカン派の精神分析家として
現在の日本に、「心理学化する社会」という弊害をもたらしたのは、心の専門家を名乗る
人びとであることをわかっており、自身もその一人だからである。
冒頭は、サブカルチャーと,心理学化について語るが、それは心の専門家の責任ではない。
たとえば,小説。日本には私小説という伝統があるので,誤ってしまうが,小説は嘘なのである。
それを教えないで心理学化云々と言うのは間違いだ。これは明らかに文学の責任だ。
問題は,精神分析、カウンセリング、犯罪心理,プロファイル、などである。
あらゆることの責任を心の内側に求めることは,明らかに間違いなのに、
その風潮に,異を唱えるべきなのは心の専門家の責任なのに、それを、
成し得ていないのである。
責任の一端は,もちろん著者にもある。
だから,この本を書いたのだろうが,言い訳が、混じっているため
中途半端な主張になってしまったのが残念である。
ところで、著者の斎藤環氏は、同じラカン派の精神分析家片田珠美氏の
犯罪分析をどう評価するのだろうか。
P.S.
精神分析には学がつかないって、それはあまりにひどすぎる逃げじゃありませんか。
小沢牧子さんが、オザケンのお母さんだって知ってるよって、えばってる場合じゃありません。
文庫版あとがきでの筆者の主張の変化に注意
★★★★★
思想・文学がリアリティを失い、自らの実存を仮託するリアリティがなくなった現代では、薄められ一般人にも利用可能なものにされた、お手軽な心理学・精神医学の言葉がその欠落を埋めている、つまり社会が心理学化している、というのが本書のアウトラインだ。詳しくは本書単行本版に多くのレビューが載っているので繰り返さない。
ただし、文庫版発売のために書き下ろされた文庫版あとがきに書いてあるように、単行本出版時から5年経ち、社会の変化に伴って本書での筆者の考えにも微妙に変化が生じていることに注意する必要がある。筆者は「心理学化」というアイデアは過去のものになってしまっていると思っているようで、いまや個人は社会学の「個人の内面に介入しない言葉」が心理学の代替になってきている、つまり「社会の心理学化」から「社会の社会学化」になりつつあるという。しかし、そうした事態に対し、精神分析的な倫理を見出し、実践していこうという筆者の結論は変わっていないようだ。以上のことから、未読の方には単行本より文庫版をオススメしたい。