第三批判下巻…神の実在の確信へと至る目的論的判断力
★★★★★
下巻では、主観的に根拠を持つ反省的判断力として、目的論的判断力を取り上げ、考察する。上巻では同じ反省的判断力に含まれる美学的判断力と崇高を志向する仕組みが、自然の因果論的連関から離脱して自由意志を育てていき、実践理性へと近づいていく過程を記述したのに対し、下巻では、自然の仕組みとはたらきを理論的に解明しようとする過程から、実践理性へと繋がる道のりが見出されていく様子を明らかにする。その道のりは、世界の客観的根拠は証明できないが確信を持つことができる、という第一批判・第二批判で示された要旨に則った、その確信の内実を深く省察する内容になっている。
自然の探究を進めるに当たって、また進めていくにつれて、自然に何らかの目的を想定することが探究者自身にとって必要になること、そんな自然の目的は機械的自然法則と有機的自然法則の二つの様相で想定できること、このことがまず最初に示され、ここから議論が始まっていく。
機械的自然法則から試みられる目的設定は客観的にも主観的にも不完全に至るほかないこと、有機的自然法則から試みられる目的設定、万物の「究極原因」の設定が主観的には了解し得るものであることが、前半に幾つかの視点で示される。そんな究極原因の主観的な確信から、根源的な存在者である「神」の存在、さらに「心の不死」も主観的に確信を得られることが、後半で示される。そして、この巻でも上巻と同じく、論考を可能にしているのは自然の因果的連関から離れて生きることのできる人間の「自由」が可能だ、ということであることは度々言及されている。
読み進めていくと、この巻での話題は、通常宗教の分野で取り上げられていることに気づく。カントがここで行っているのは、ひとが神に至る道を、宗教的な語彙をほとんど使わずに思索しようという試みで、具体的には、神学の前に道徳的目的論を立てることで神を想起する道筋を作り上げている。
結果的には、理論理性が実践理性に至る道は、上巻で示された美学的判断力を経由するルートと、下巻で示された目的論的判断力を経由するルートの二つが示されたことになる。そのどちらも主観的な確信に基づいた反省的判断力であること、人間が自分のからだで捉えなおした確からしさに基づくことは、単なる思弁では終わらない思索、「哲学」がどんなものであるのかを教えてくれるものだと思う。
後世の哲学・人文科学・社会科学の基準になったことがよくわかる三部作だった。ここを理解しておけば他の著作の理解が容易になる効果があるのではないか。事実、三大批判書の内容を踏まえてヘーゲルの著作を読んでみると、カントが残した業績をベースにして議論を展開していることは一目瞭然に分かった。決して第二批判・第三批判が付け足しではなく、三大批判書全体が後世の哲学の問題領域そのものをセットしたこと、無意味な「整理整頓」がお好きなわけではなかったことが、ヘーゲルの仕事を通じて理解できる。しかしなにしろ、三大批判書を辿ってみることは最高に面白い体験だった。
難しい…
★★★★☆
一連の書籍の最後を飾る判断力批判。
形而上学・道徳と来て、哲学として一つの物を形成した。
いまも息づく古典としてカントは読み継がれているが、
本当に難しい。カント自身が簡潔平明に書いたプロレゴメナでも、難しい。純理の後書きで書いてあったが、カントは誤植や文章が難解なことに無関心で、これまでに幾度も他人によって訂正された。それを翻訳された物である。が、それでも難しい。もうお手上げである。
特に我々の「趣味判断」を考えるなら、先ず読んで下さい
★★★★★
例えば、我々が美について考えるなら、一度は読まなくてはならない本である。我々の意識に訪れる趣味判断については、後に出てくる学者は本書をベースに考えられたことが多い。
ニーチェやハイデガー等もそれぞれの見地から、美的判断を理論化しているが、(少なくとも社会学的方向性からですが)どちらもこの点ではそれ程には使えそうにない・・・。しかしカントの理論は、批判されながらも使われ続けてきた。
そんなカントの本の中で、「第三批判」と呼ばれるのが本書だが、オススメとしては、「第一批判」(『純粋理性批判』)の次にこれを読むと好いだろう。そしてむしろ本書の次に、「第二批判」(『実践理性批判』)を読む方が好いのではないかと思う。しかし付け加えておくと、だからと言って『実践理性批判』を軽んじるべきではない(現象学の方向性では軽んじられてきたと言えるでしょうが、ヘーゲル・マルクス辺りは違う!)。
まぁそもそも、現代思想においてはカントの理論自体が、(手前味噌で申し訳ないが)レヴィ・ストロースからブルデューにまで、多大なる影響を与えてきた。だから、現代思想を理解する上で、ニーチェからしっかりと読めばそれで良いという訳ではない・・・。
尚、本書を読むと、これだけは思うだろうが、(よく言われる様に)カントはその悪文によって、哲学の芸術に対する優位を物語っているのであり、これは理解する上で重要なキー・ポイントでもある(だから文書が分かりづらいのは、訳者が悪いのではない)。逆にニーチェの文章がああも詩的で美しいのは、カントとは考え方が違う為、その表れである。こうして考えながら精読すると、ますます面白さが増えると思います。