毒にも薬にも‥いや、薬にはならないか。
★★★☆☆
ある種☆5つ、だが
ある種のトラウマでもあるのでアンビバレントな気持ちになる‥読まなくても済む人生も、それはそれでいいと思う。
はじめ18歳で何回か読んだんだけど、これ読んで自滅に突き進んだクライストの気持ちも解らないでもない。
ロマンティックな衝動や全能感は、自体、に対する記述で墜落させられる。
しかし宮殿のような威圧感すらあるこの本の前で無力感を思い知らされてこそ、
この後に真に何がなし得るだろうかと考えるきっかけになるというか、
一人の人間が真剣、真摯に徹底して厳密に構築した批判(どちらかというと推敲とか吟味に近いニュアンス)である、
この大著の中には、重要なタームがいくつもあるし、
哲学や法を考えるのならこれは読んでいないとどうにもならないと思う。
哲学や法に限らなくても、生きてく中で哲学''的''に、論理''的''にものを考えようとするなら
叩き台としてカントとヴィトゲンシュタインは読んどくべき。
ただ、そこで窒息してしまってはなんの意味も無い。
なんで例えば、小脇にいい加減に口に運べるスウィーツを用意したり、
読後に精神分析をぶつけてみたりポルノを併読したり、
ノイズ音楽やメロメロなポップ音楽を聴いたりすることで(クラシックとか現音だとかアカデミックなものは逆効果)、
くれぐれも隣人との日常会話やらの中で「超」だとか「自体」だとか三段論法の仕方に過剰反応して言葉狩りをしてしまったり、
美術やら音楽評論にカント用語を持ち込んで
補償しようとしたりお茶を濁す事がないようこれからのキッズは気をつけよう☆
哲学しようとする人へ
★☆☆☆☆
哲学しようとする人の多くが、きっとこの本を書店でみつけることでしょう。
しかしこの本は読んで理解できたと思う人は一人もいないでしょう。理由の第一は、そもそも原著がとても難しいこと。第二は、翻訳がまったく良く無いこと。
哲学は学ぶものではなくするものだ、とはよくいわれる言葉です。しかしこの古典に関しては、まずだれかに読み方を導いてもらうか、独学するにしても繰り返し繰り返し読んで行間になる空気を知らないと、解った気になるのは到底不可能です。
哲学はするもの。そう考える独習者にとってこの本への出費は無駄です。岩波の名前に惑わされないで、ちょっと値段ははりますが別の出版社から出ている原佑訳を買いましょう。
「批判」……吟味、検討、領域設定
★★★★★
カッシーラーの「シンボル形式の哲学」を読んでいるうちに難解さが募り、そのおおもとである本書を手にとって読み始めた。読み終えてみると、、他のレビュアーさんもおっしゃっている通り、以後の人文科学・社会科学に大きな影響を与えているのが想起できる素晴らしい著作だ。
本書の書名に示されている「批判」は、取り上げる事柄について断罪したり全否定する意味合いではなく、上巻で言えば直観、構想力、概念、カテゴリー、図式、判断力といった認識過程の仕組みと働き、中巻で言えば理念・世界概念および自然概念・理想、誤謬推理・アンティノミー・神の存在論的ー宇宙論的ー自然神学的証明といった理性に関わる仕組み・働き、下巻では思弁的理性を強化する訓練・実践的理性を強化する規準・純粋理性を構築する枠組みの見取り図などについての吟味をし、検討を加えた上で、その効き目と限界を示す領域を確定していくという手続きで、上巻の初めに大まかな目論見を示した上で、順を追って論述を進めていく。
具体的には、上巻では現象を手がかりに思考を進めていく際のメカニズムを、感性、悟性(知性と読み換えてもいいと思う)の順で論じている。中巻では、感性および悟性(知性)で得られた認識からは、主体・世界・神の無条件な実在性を思弁的に導き出すことが不可能なことを証し立てる。下巻では、ともすれば暴走しがちな理性を制御し強化する方策について、及び純粋理性がなしえる可能性についての素描を描く。その手際は難解というわけではなく、判り得ない事は判り得ないと率直に認めながら、経験において認識可能な領域と認識不可能な領域を何度も確かめつつ展開される。このあたりの見晴らしのよさは、カント自身が10年余りに渉って地理学を講義していた経験によるのではないかと思う。
本書の思索を辿っていくと、上巻では、カント自身が自らの経験を吟味しながら、認識すること・考える事とはどんな仕組みとはたらきに拠っているのかを自力で把握しようとするカント自身の感性と悟性の動きが、書かれている内容と共に伝わってくるように思えてくる。
中巻で言えば、見かけ上理性のはたらきを否定しているようにも見えながら、知性の導き手としての理性の効き目を否定しているわけではないことにも気づく。知りえることの幅を広げる助け手としての理性は擁護されていて、ただ、知性を統御することが本質である理性に、全ての存在を理解できるかのような絶対的な権能を与えようとすることが斥けられているのだと思う。
下巻では、知性を制御する役割を持つ理性自体を制御し活性化することで、思索の明晰さに至るだけでなく、日々の暮らしをより力強く生きるための信念をも獲得・維持できることを示す。その記述は、何か「論語」を連想させるところもある。
こうして、海原を進む船が波飛沫を受けながら北極星を頼りにするように、知性は感性から触発され、理性の示す光を頼りに、知りえること及び確信を持って生きる術の限界を押し拡げていく。
現象に向き合ってものを考えることについての効き目と限界を学べる著作。
偉大なる知的妄想でもいいじゃん
★★★★★
まず訳の問題について言えば、分かりやすい日本語とは到底程遠い代物であることは
紛れもない事実。ただ、翻訳者がどうこう以前に、本人のドイツ語があまりに混沌とした
悪文なので、とても責める気にはなれない。訳語も出来上がってしまっている部分があって、
下手に気を利かせるとかえって何を言っているのか分からなくなってしまうこともあるわけで
(それをやってしまったのが谷川氏のデカルトだろう)、そういう事情も多少は斟酌すべき。
このテキストの素晴らしさ、カントにおいて、とりわけこの『純理』において感動的なのは、
これでもか、とばかりに緻密に論理を組み立てて、必要最小限の道具立てから己の脳と
ことばでもって徹底的に「批判Kritik」を繰り出すその態度、さらにその上で結局、有限な
人間に分かるわけないだろ、無理、と語るその潔さ、挙げ句の果てにはなぜ無理なのか
さえも「批判」する始末……。
カントを特徴づける「異常さ」(どのような意味において異常なのか、はここではあえて
言及しない)がこの上なく表現された不朽の名品、それが『純粋理性批判』。
現代の自然科学者に言わせれば、その記述の多くはただの妄想としか思えないような
代物でしかないのかもしれない。
しかし、人間の営為としてのそのサイエンスを文字通り基礎づけている徹底的に論理的、
分析的姿勢がこの本には満ち溢れている。
そんな真摯なカントに触れたい人は是非。
ルービックキューブ
★★☆☆☆
本というのは、決まった色があって、その色が、そろっている。サイコロの様に、番号が振ってある。
この本は、一面の色がそろっているが、他面がバラバラの状態で解説し、その都度、色を追加・入れ替えていく。
足りない色を、一面にプラスして追加する。
難解で、また読み終わっても釈然としない。この本を読んで全体像が見えてこない。が、微かに素晴らしい色が見えた。