なんとも哀しい小説
★★★★☆
著者とは顔を合わせたことはあるが、あらたまって話をしたことはない。著者の父親が私の文学の師だったから、師の娘として相対した。ここに出てくる「父神病」というのは、実に実感できる。私もそうだったからだ。私の場合は、〈擬似父親〉みたいな存在だったから。
直木賞をとった後の談話として、癌だったと知って著者の作品を久しぶりに読んでみた。ほぼ実体験に近い話ではないかと思った。ここではだめな女が描かれている。しかし、だめな人間はすぐれた人より好感が持たれる。なぜなら安心できるからだ。ほとんどの人は、挫折感を抱えている。そうした女性に支持されそうな小説だ。男からは、この主人公は厄介な女として見られるだろう。「ズームー」に同情する男も多いのではないか。
何もしないうちに、35歳から45歳になり、55歳になってなってしまうという感覚はよく分る。結婚して子どもや雑事に追われていることのほうが、案外幸せかもしれないと思わせる。そこには解決しなければならない課題がいつも発生しているからだ。悩ましいが充実感も、達成感もある。
なによりも自由であるはずの主人公が、なぜか一番不幸を抱えているように見えるパラドックス。ここにこの小説の魅力がある。外見からは自由気ままに生きていても、充実感に餓えている。こんなところが、都会の女性に共感を呼ぶのかもしれない。
1日300円以下で暮らしている人間が、地球上で半分以上いるなんてことはどうでもいいことであり、その人たちは必死に生きようとしている分だけ自分たちより幸せと「彼女たち」は感じるのかもしれない。精神的な豊かさとはなんなのだろうと、あらためて考えさせられる小説でもある。
今度は、流行作家になってしまった不幸を書いてもらいたい。皮肉ではなく。
過ぎ去ってから、得るもの。
★★★☆☆
まさにタイトルどおりの“ズームー”との日々が、淡々と綴られていく。
井上荒野さんにしては、本当に淡々と。ニヒルさもアンニュイさも影をひそめ、
『森のなかのママ』のような明るくハイな作品でもなく、『だりや荘』や『学園の
パーシモン』の、息詰まるサスペンスとシリアスさもなく・・・・・・。
主人公の「私」は、本を一冊書いたきりの売れない小説家である。
あるテレビ番組に司会者として出演したことから、そこでADとしてアルバイトを
していたズームーと出会う。
8歳年下のズームーとの7年間の日々。暮らしや生活といったなまなましい匂いは一切ない。
愛の日々というにはあまりにも弛緩した時間が流れている。
「私」はズームーともう一人の男の間で揺れ動くのだが、揺れ動くのは「私」の
心だけであって事件らしい事件はなにも起こらない。
おもしろいのは、その恋の動向より、「私」がのめりこむフィットネスやら美白やらの
エピソードだ。
のめり込んでいく気持ちの傾き方がなんだかとても滑稽なのだ。
何もしない日々。本当に何もしない7年間を過ごし、終わったズームーデイズ。
最後の章でズームーと別れてからさらに9年がたったことが明かされる。
作中に織りこまれた「私」の来歴や父親のことなどを考えあわせると、この作品は
荒野さん自身のことが幾分かは投影されているのかなと、下品にも私は勘ぐって
しまうのだが、反対に、いかにも読み手がそう読んでしまうようにうまく操作された
作品なのかなとも思ってしまう。
まさに、「いたたまれないのに、忘れられない日々。」となった時、人は過去を手に
入れるのかもしれない。