作り方は書いてない
★★☆☆☆
キャラクター小説というモノを、この本を読むまで知らなかったが、どうやらライトノベル小説のことらしい。
もっと知らなかったのは、日本の小説というモノは、田山花袋の『蒲団』に象徴される私小説が連連と続いていて、それを新井素子が打ち破ったということ。
そんな「小説の歴史」があったとは知らなかった。。。
なんてことを言っていいモノか自信がないが、はっきり言えることは、作り方と銘打っているが、作り方を説明した本ではないこと。
「作り方」的なタイトルにしておきながら、持論を展開するだけという人は多いが、この大塚さんもその1人。
しかも、独自の「小説の歴史」の解読者でもある!
本の記述によれば、大塚さんという人は 小説家としても編集者としても、出版社には損をさせないレベルの仕事をしてきたそうだ。
「損をさせない」言葉どおりに受け止めよう。だったら、何もしないのと同じではなかったのか?
キャラづくりを学びました。
★★★★☆
評論がどうのとか皆さん言ってますがそれよりもっと重要なことがこの本には書いてありますよ。
小説かどうかはともかくマンガを描く上での「キャラクターの作り方」です。大塚英志の作るキャラクターはなぜか顔やら体が欠損していたり傷ついていたりします。
現代人で顔以外に記号性を持たせるとしたらファッションか傷とか、そんなものです。我々が普段見慣れているものに記号性はゼロなのです。
あまり突飛なものではなく意外なものを組み合わせて「キャラクター」は作られるのです。某「忍者だけど普通の服」とか「和服だけど死神」とか、あと
キャラの色を少なめにするとまとまりがでます。ほかにもいろいろと記号性の重要さはありますがちょっと複雑になってきます。
私はこの本で「記号性」のあまりの重要さに気づかされ勉強しました。
マンガのキャラを作る上では記号は一番重要なものです。
マンガ小説
★★★☆☆
ここで述べられているキャラクター小説はライトノベルの事のようだが
作者はこれをマンガのような小説と断じている。
マンガのような小説は、パターンの組み合わせとも論じているが、しかし有る程度、辻褄の合うストーリーを作ろうと思えばパターンは限られてくるだろう。
どんな小説であれ、物語のパターンはシェークスピアで出しつくされたと言われている。
作家は、枝葉末節の表現方法や構図で個性を出しているに過ぎない。
何もライトノベルに限られたものではないだろう。
あえて言えば、例えば好きな女の子とキスをしようとしたところ、突然、お邪魔虫がやってきて大騒ぎになるとか。
マンガやライトノベルとかで使い古されたパターンも確かにあるな。
他にもキャラクター小説の問題点として
1.オリジナリティが欠けている
2.構成が破綻している
3.描写と説明の区別がついていない
4.設定の考察が足りない
5.よくあるキャラクターを安易に使う
6.世界観とキャラクターが合っていない
これらはキャラクター小説の大賞選考で問題の多い作品として持ち出されているが、本書ではキャラクター小説全てに当てはまる問題だと言及している。
例えば、1と5の例として左右の目の色が違う登場人物が、大賞に出された作品の多くの共通して出されているとか言及しています
その上で、どうせ左右の目の色が違うのなら、そこに作品としての必然性を書けと述べられていますね
左右の目の色が違うからゴーストハンターにならざろう得なかった少年の物語を書けとか述べられていますが。
これは確かに頷ける面がある。
このようにライトノベルと呼ばれる分野の小説の問題点の言及が為されていましたが。
確かに頷ける面もあるかも知れないが、これが小説作りに役立つかどうかは未知数です。
ライトンベルであれ一般小説であれ、結局は物語を作るという意味では同じなのだから、無理してライトノベルを書こうと意識する必要もない
そのような印象も受けました。
実用書ではない
★★☆☆☆
あとがきにて、本書は実用書であると書いていますがまったくそうは思えません。
立ち読み程度にチラッと中を読めばわかります。
・○○と△△の小説の中身が似ている。
・××という映画は神話と似ている。
・あの政策や戦争はパフォーマンス制が強い。
などなど、とても“小説の作り方”を書いているとは思えません。
著者の思想や捉え方が延々と綴られているだけに感じました。
か、柄谷のかの字も…
★★★☆☆
若者に上から諭すような柔らかい文体が相変わらず不気味な大塚英志なのであるが、東浩紀の
『動ポモ2』など、後のオタク評論に少なからぬ影響を与えたことは、言うまでもない本書。
本書の発端となるのは、キャラクター小説(ライトノベル)のある賞の選考委員が落選作品を
「オリジナリティのなさ」において批判したというエピソード。しかし、大塚英志にいわせれ
ば、その作品だけが保持する本当の意味での「オリジナリティ」なんて虚構であり、登場人物
だってストーリーだって、予めあるパターンの集積(データベース)からの取捨選択による組
み合わせにしか過ぎないのだ。
原作者でもある大塚は、自作をネタバラし的に解体していくことによってそれを論証していく。
自作の構築過程を事細かに叙述しているだけあって、これは説得力がある。
その勢いで大塚は、旧来の「文学」としての「私小説」、その「私」だってキャラに過ぎないと
いうことを白日の下に晒す……が、ここまでくればお気づきの方も多いかもしれない。
これは同じく評論家の柄谷行人が『日本近代文学の起源』ですでにやっていることとまんま同
じなのである(しかも田山花袋『蒲団』だけで「近代文学」を語っちゃうのはムリがあると思う)。
その先行する柄谷の論はしれっとスルーしているのが、この大塚英志という人物が正攻法なのか
そうでないのか、わからなくしているところ。