枯れ果てて
★★★☆☆
井上靖の文体はわりと分かりやすいです。「中間小説」なんて言われる所以があります。
千利休や山上宗二、古田織部ら名だたる茶人たちの死を、本覚坊の視点から幻想を交えて捉え直す。東陽坊、岡野江雪斎、織田有楽といった他の茶人たちとの交流を通して。そして見えてくるものは、常に冷え冷えと枯れている覚醒状態としての美学を有する茶の湯の世界。スポーツや恋愛や学術に燃える「熱」が尊ばれる現代の風潮とはちょっと違う、自分の存在を透視するような哲学的世界。そしてそういう茶の湯は、きわめて微なるものでもあり、時の権力者たちに蹂躙されてもよしとする世界でもあると、終盤の本覚坊の夢の中で千利休は語ります。
分かりやすい文体であるとともに、専門知識(蘊蓄)もあっさりと触れられ、そこがこの小説の白く枯れた世界をほどよいものにしているようです。
老年になって書ける小説なのでしょう。そして老年にならないと良さがあるいは分からないか。
井上靖は大岡昇平と論争したこともあります。徹底して真相を捉えようとする大岡昇平の考えの方にむしろ凄みを感じるけど、井上靖の小説が俗っぽいなどと言える程、私はその小説を読んでるわけではありません。
死に向き合う日本の思想
★★☆☆☆
本覚坊という遁世の茶人が師・利休とその死についてえんえんと省察を深めてゆく小説。徹頭徹尾枯れかじけた日本の冬の情感につらぬかれており、静的な味わいが抜群。利休の幻影との対話・利休をめぐる茶人との会合と彼らの他界という構成。利休の師への回想が徐々に深刻さを増していくのはドラマチック。茶器の名称が頻繁に登場するので、通じている人にはさぞ楽しめよう。利休に対して、権力との葛藤への批判、彼の人柄への批判、彼の死に方への批判、それら矮小な議論のはるか上に位置する柳宗悦による本質的批判などがあるが、本書は利休という1つのあり方を通して1つの死生観を模索する抽象的な内省録なので、その点を誤認したくない。異様な熱気に包まれた茶会において、無と書いた掛け軸をかけては何もなくならぬが死と書いた掛け軸をかければ何もかもなくなると語られるくだりは圧巻で、これは映画版でも最も緊迫した場面であった。無と単に語るのでなく、能動的に死と向き合う姿勢が、そもそも生には大事なのではなかろうか。