孔明、登場。
★★★★★
「悪人」であった劉備の変化が、本巻のテーマでもある。
宮城谷さんが造型した劉備は、
「戦いに敗れれば城地どころか家族や配下さえ棄ててにげる」
――という所業を繰り返してきた。
そんな劉備でありながら(義兄弟の契りを続ける関羽・張飛以外の)、
向こうからやってきた得難い人材がいた。
徐庶。彼が出てくるあたりから、本巻の見所の序曲が始まる。
徐庶は、劉備の美質を見ぬき、関羽・張飛クラスとの共同体レベルを超えた
「政体」確立のために、学友である一人の隠士を紹介する。
自分とは違うから、彼に対しては自ら足を運ぶようにとまで、徐庶は進言する。
それほど期待しなかった劉備だが、初対面で、孔明=諸葛亮を「偉材」と直感する。
一方、諸葛亮は、直ちに「この人は、無であり空である」と認め、その行為に
意義をもたせることができるのは自分自身しかいない、と確信する。
著者自身によって、「思想的畸形」とまで評された劉備。
だが、その“畸形性”ゆえに、“臥していた龍”である諸葛亮を目覚めさせる。
つまり、曹操のような、己れの思想・政策を説明し得る哲学と語彙をもつ人物ではない、
まったく「無」のひとである劉備の「無」の意味を、諸葛亮だけが理解した瞬間――。
6巻目にして、宮城谷三国志最高の名場面が訪れた、といえるかも知れない。
だが自分は、この後、君臣としての緊密度を増してゆく二人とは対照的に、
急速に居場所を失っていく徐庶の描き方に、しびれた。
「かれ(徐庶)は劉備をつかって臥龍を起こし、
その龍の背におのれの夢をくくりつけると、その夢を手放して、
覇権を天空でつかむような飛翔にはつきあわず、
老母の手をひいて地上を歩いたといえよう。
その地上に龍の翳[かげ]が落ちたのをみたのにちがいないのに、
一言の感想も遺さずに死去した」
本書後半の見せ場、「赤壁の戦い」の描き方も、まことに個性的。冷徹とすらいえる。
呉の周瑜の、劉備に対する軽侮ぶりも、半端ではない。
もちろん、演義や例の映画などとちがって、「赤壁」で、諸葛亮の出番はない。
血湧き肉躍る合戦を期待する向きには、不満かも知れない。
だが、各人各様のすさまじい心理戦は見事に描かれている。素晴らしい。