モデルの視線、撮影者の視線
★★★★☆
我々は日常的に人の顔を見て暮らしており、肖像写真はそれを切り取って固定化したものである。実生活においては、よほどのことがなければ、1人の人の顔を長時間見つめることはしない。肖像写真においてはそれが可能である。肖像写真は、人間という一番移ろいやすいものを題材とするがゆえに、撮影者も、モデルも、鑑賞者も、時代の影響から逃れることができない。本書は、3人の代表的な肖像写真家を取り上げ、それぞれの視線の背景を平易に解き明かしている。写真の歴史に興味がある方はぜひ。
タギな写真論
★★★☆☆
筆者の見方がどうもすんなりと落ちていかない。ひっかかるのだ。もとより私は写真についてほとんどズブの素人であるから高名な美術評論家である氏に噛み付いたとて始まらないことは承知している。だが、どうも納得できない。
創成期の写真家ナダール「顔の個別性にこだわって写真を撮った」と多木氏は語っている。この時代、つまり写真の創成期には、人びとの意識の中で写真はまだ特別なものであった。正装して、「写真館」に出向いて、一生に一度の晴れの姿を撮ってもらう。撮られた写真は家宝の位置に収まる…てな具合だったろう。しかも、この時期の撮影は今日とは比較にならないくらい大掛かりで時間を要する作業だったはずだ。撮られる人は現在よりかなり長時間の緊張と静止を要求された。つまり意識とハード条件、二重に特別だった初期の写真は肖像画のようにならざるをえなかったと考えるべきだろう。筆者はそういう点を意識的にか無視しているように思える。2人目のサンダーについても写真機が携帯可能な大きさ・機能になった点をやはり切り捨てて論が進められているのが気になった。3人目の写真家アヴェロンについての見方は納得できたのだが、最初の二人については筆者の見方にうまくついていけなかった。
ケチを付けてしまったが、ここに紹介されている写真はどれも魅力的でそれを見るだけでも価値のある本である。
買いです。
★★★★☆
本書は、19世紀後半から現在までを50年刻みの三期で捉え、それをナダール、ザンダー、リチャード・アヴェドンという三人の写真家の作品の「差異」を通じて、「記述された歴史とは違う歴史」を浮かび上がらせようと試みた一冊です。したがって、作者はそれぞれの作品の細部に目を凝らすことによって、その向こうの撮影者の視線を読み取ろう、読み解こうと試みます。いわく、各章の表題にある「ブルジョワの理想」であり、「二十世紀の全体像」です。しかし、つまるところ、「写真は言葉にはならない視覚的な直感を与え」、「提示するだけである。判断はしないのである。」(P124〜125)とする作者は、読者である我々にそれぞれの作品が喚起するイメージ、呼び起こす感興に身を任せ、享受することをのみ促しているようにも思えました。こういった分野にはまったくの門外漢の僕が支障を感じさせられる専門用語など使われることなく、あとがきにもあるように素人を対象にした講演会でも聞いているような気安さがあって、含蓄に比してとても読みやすい作品だと思います。
視線の果てに向う三人の写真家
★★★★☆
多木浩二の著作は、それが大著であれ、こうした新書であれ、リーダブルで軽みがあるが、その淡々とした記述のなかにハッとさせられるようなことが書いてある。しかも後から気付かせられる場合が多く、記憶に残る文章といえよう。
専門の写真論のなかでも肖像写真に絞った本書は、まさに記述された歴史によっては描けない、また伝えられない歴史を掬い取ろうとする試みであるが、彼自身の記述のスタンスは、限りなく写真に近づこうとしているのかもしれない。
ナダール、ザンダー、アヴェドンといった写真家の肖像写真を扱いながら、静かに紡がれる
「まなざし」への考察は、確かに記述されない歴史を浮かび上がらせている。
それにしてもアウグスト・ザンダーの写真は魅力的だ。もっと大きな版型で見たくなる。
ザンダーを扱った写真論としては、ベンヤミンの『写真論』も面白いが、リチャード・パワーズの傑作小説『舞踏会へ向う三人の農夫』が頗るつきの面白さだ。