オートバイが魂の深みに触れる瞬間
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佇まいのあるオートバイをたまに見る。他のオートバイと何が違うのかコトバで表現しがたい。ただ違うことだけがわかる。この気配はバイク乗りだけではなく、道具を使うことに関心のある人ならはっきり感じられるはずだ。
本書は禅について専門的に解説しているわけでもないし、オートバイの具体的なメンテナンスについて書かれたものでもない。しかし禅に代表される東洋思想に関心を持つ人々とオートバイ乗りの一部は、この本は自分に向けて書かれたものだと確信できるだろう。またオートバイにも禅にも全く縁や関心がなくても、現代の消費文明に違和感を感じざるをえないタイプの人々にとっても、この本は重要な指針となりうる。
著者パーシグは知識も情報も社会の中の人間の役割も際限なく分割されてしまう現在の西洋文明の淵源がアリストレテス的な考え方に胚胎していたことに気づき、孤独な戦いを始めた。その結果、精神を病み、ロボトミー手術で人格を損なわれた。本著は息子クリスをタンデムシートに載せホンダCB450でアメリカを横断する旅と、パーシグの思索が交互に語られ、移動の中でアリストテレス以前の『クオリティ』の概念を見出していく構成となっている。その筆致は風景を辿り寄せ、自分の後ろに追いやっていくライディングの感覚そのものであり、ノイローゼに近い状態までものを考えたことのある者には馴染みの、自分の中に深く沈降していく印象やアイディアを発見した時の喜びと周囲の無理解に対する苛立ちと孤独が生々しく表現される。
マンガ家の東本昌平は自作の中で、50年前に生まれていても50年後に生まれていても時速300キロ出せるオートバイに乗ることはできなかっただろう、と登場人物に語らせた。確かに50年先の世界でオートバイのような過激なヒューマン・アンプリファイアが簡単に個人の手に入るとは考えられない。また50年後には、禅のような思想や実践は出自を忘れ去られ、向精神性のテクノロジーとして換骨奪胎されているかも知れない。本書の舞台となる1968年のアメリカと、2008年の今の日本の状況には多くの違いがある。だが特権を持たない個人が移動本能をダイレクトに具現化したオートバイを所有することができ、東洋的な精神文化を単なる異国情緒や黴臭い伝統ではなく資本主義社会に対する批判的な対抗軸になると考えうる知性を持ちうるという点で、時代の異なるふたつの社会はいまだに共通している。だから今の日本のオートバイ乗りはパーシグの葛藤を自分の問題として理解できる。
世界を分析・分割しうるものとして捉えメカニカルな組織や社会を構築する発想は、古代インドから古典ギリシャに至る地域に共通するもので、現在の世界はそのような考え方に則って運営されている。しかし現代の日本に存在する私たちは、そうではない世界の把握の仕方があることを、直観的な知性で感じる瞬間を知っている。パーシグが行き当たった『クオリティ』は、仏教用語で言う『無分別知』であり、人類が文化以前に獲得し今も潜在的に共有している財産だ。対象の全容を直観的に捉え、細部が明確になるまでそれを注視し続けることで個人にとっての世界の姿と意味が変わっていく。
オートバイやクオリティまたは無分別知が、特定の地域に限定される文化なのではなく人間の本性に深く刻まれたものであるのと同様に、これらを通じて現代文明のあり方を検証した本書は、グローバルで普遍性な価値を持つ。著者パーシグは、本書をスウェーデン語のクルツールベイラー(kulturbarer=文化の担い手)という言葉で表現した。今の時代に生きる我々は、オートバイに惹きつけられて、その世界を体験することができる。また伝統文化あるいは異文化の精華として禅を学び、実践することもできる。いずれも身体性を伴った学び・気づきの場だ。ノイマン型コンピュータによって0/1のデジタル信号にまで分割された情報の集積を世界そのものと見る、現在主流の考え方とは対極に位置する原始的な、それゆえにかけがえの無い直観だ。今を生きる私たちは自分の意思でこれらの道具を選び、道具を通して世界への認識を変えていくことができる。パーシグが定義する『文化』とはその視点の転換のことであり、だからこそ本書は全世界で500万部以上売れたのだ。
佇まいのあるオートバイは、持ち主のクオリアが形になったものだ。人は工業製品であるオートバイに、自分のイメージを吹き込み、それ以上のものにする能力がある。自ら作り上げた女性の彫像に魂を吹き込んだ彫刻家の話はただの寓話ではない。パーシグがクリスとのツーリングの後、CB450を所有し続けたのか手放したのかはわからない。だがパーシグのバイクには間違いなく佇まいがあっただろう。68年に荷物を見た満載したパーシグのバイクを見たアメリカ人の中にも、同じように感じ取った人がいたことを、私は信じている。
良書は必ず復刊される!
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本書と向き合って、思考を巡らしつつ、三度読んだ。この本にはそれ自体何か奇妙な魅力が秘められているからだ。読むたびに、今まで気づかなかった何かを得て自分の生活に戻る。オートバイ乗りでもない一介の技術者のワシが、まるでパーシングと一緒にオートバイの旅をしている気にさせられる。おそらくこれからも読み続けることになるだろう。かなりねちっこい人間だから、途中でやめてしまうことは滅多にない。文庫版として復刊されたのは喜ばしいかぎり、文庫版だからこそどこにでも持って行けるという利点がある。単行本(今では古本)もロングセラーを続けているのだから、改訂されたこの本も今後ますます多くの読者を獲得していくに違いない。蛇足(?)だが、訳者も単車乗りとは知らなかった。翻訳技術という言葉があるのだから、微に入り細をうがつ技術を持った人なのかもしれない。ワシも単車の免許取って、これから日本一周でもするか、日本の哲学の原点を追ってな!
人間の脳って壊れやすい!?
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天才的な頭脳を持っていると自負していても、壊れてしまったら終わりだよね。
クリスは23歳で死亡(ナイフで刺殺という残虐行為)、パーシグ(=パイドロス)はい
までも元気らしい。皮肉だよね。
悲劇なのか、素晴らしい新世界の始まりなのか、<クオリティ>の探求を諦めなかったパ
ーシグには頭が下がる、というより及びもつかない。
でも、記憶が戻ってクリスとうち解けたところで物語が終わったのは一種のカタルシスか?
久々のツライ読書だった。
この本に関するレビューはブログでも非常に多いけど、私も含めオートバイ乗りのためだ
けの本ではないと思う。哲学書って言う人もいるけど、別の読み方もできる。自分は知的
たとか、他人とは違うと思っている人にとっては縁遠い本かもしれない。真剣に読んだら
脳が破壊されてしまうかも!!??
だから、これから読む人は覚悟すべし。恐るべき書物であることは確かだ。
凄まじい内容に感動!
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オートバイに関するノンフィクションで、これほど凄まじい内容の本に出会ったことはありません。修理技術はさておいて、「禅」と「オートバイ」という関係性に瞠目、とにかく読み始めました。するとどうでしょう、「禅とオートバイ」どころか、様々な事柄がシャトーカという形式で重層的に語られ、「絶対的真理」(クオリティの解明)に向かって突き進んでいきます。電気ショック療法で記憶を失ってしまったといっても、IQ170で飛び級、15才で大学に進学した著者のレトリックには想像を絶するものがあります。あまりの鋭さについて行けなくなることもありますが、そこは二度、三度と繰り返し読めば、クリアできると思います。詳しい内容については、ネット検索でも参考になるブログやコメントがたくさんヒットします。読後感は爽やかです。驚愕の事実、いや真理に出会えるかも?
オートバイには「枠」がない!
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この書に次のような文章がある。
「車は、いわば小さな密室であり・・・窓の外を移りゆく景色は、テレビを見ているのと何ら変わりがない」
「高度な知識を持っている反面、パイドロスは極端なまでに孤独であった。親しい友人がいたという痕跡は何ひとつないし、いつも独りで旅をしていた・・・しかし他人に嫌われたからといって、パイドロスは一向に意に介さなかった・・・彼の孤独の原因はその卓越した知能にあった」
初めの引用は、密室にこもっていることが好きな人にとっては、理解できないかもしれない。しかし、パイドロスはこの密室に閉じこもって、思いを巡らし、気が狂ってしまった。自分の仮説の正当性を信じ、見事なメスさばきで西洋の哲学史を検証してみても、ときの権威から見れば幼子同然、結局不足を満たすこともできず狂気へと突っ走ってしまったわけだ。
パイドロスのIQは170ということだが、現代人の中には、IQだけをとってみれば訓練されてそうなった人は無数にいる。しかし、「極端な孤独」、「卓越した知能」を有した人はそうそういるものではない。ある意味で、この書はそうした人たちに対する警鐘、啓蒙の書であるとも言えるのではないだろうか。