誤読もあるよ。
★★★★★
『小説の読み書き』です。
新書です。こういうタイトルですが、文豪の作品をどのように読むか、をワンポイントに絞る感じで述べたコラム集です。読みやすいです。
例えば三島由紀夫作品は直喩を多用している、など。
著者自身小説家であり、つまりは一般人よりは遥かに文学に造詣が深いわけですが…分かっていないのに分かっているフリをすることもなく、難しくてどう解釈していいのか分からないことは、正直にそういっています。
つまりは、一般人が読んでも十分に理解できる内容の解釈だということです。
いわゆる純文学を等身大に読み解いたものです。
漱石、鴎外などから川端、太宰など、幅広く扱っています。最後に著者の自作解説もあるのですが、それ以外は全て、故人の文豪作品が対象です。
「書く」人が「読む」視点は"目からウロコ”です
★★★★★
作中の「私」に着目して論じられている,大宰治「人間失格」と横光利一「機械」の章が特に”目からウロコ”ものでした。「人間失格」の主人公大庭と語り部の小説家は同一ではないかというアイデアは想像を超えてます。「薄気味悪い読後感」の原因「人間失格と指さされているのは誰なのか」という投げ掛けまで考えを導いていく手法はお見事。「機械」においては,横光氏が唱える「自分を見る自分」=「四人称」というものについて,実際の文中から分析を行っていて,興味深い内容に頭の中で完全に理解したいと三度も四度も読み返した程です。「書く」立場からの論考は「読む」作業しか行わない私のようなには,思いもつかないものばかりのようで・・・書店に平積みされているようなベストセラーなんか鼻で笑ってやり過ごしているひねくれ者のみなさん,必読です。
「書き手」が見た小説
★★★★☆
「書き手」としての小説家が、そうそうたる十二人の大家の作品の文章を切って見せます。
普通でない文章がそこにはあるからです。それを作者が分析してゆくのですが、実はそれがその作品の作者の意図であるようだということでしょう。
作家は、何度も推敲を重ねて本を世に出しているのですから、そこに間違いがあるとは考えにくいわけです。ですから、彼らは意図的にイレギュラーな文章で、その雰囲気を作品に与えようとしているということでしょう。
この逆が、芥川龍之介の「鼻」で、まさに玄人の文章で書かれているのですが、そこには「芥川」というロゴが入っていないというのです。
いずれにしても、三島由紀夫の作品には、「。。。のような」という直喩法が頻繁に使われているとか、林芙美子や幸田文の倒置法の話とか、ここに載せられている作品の多くは実際に私も読んでいるのですが、気がつきませんでした。
「書き手」というものは、そんなところに気が行くのかと驚くと同時に、「読み手」というのは、それを作品の雰囲気として読んでしまい、そんなことには気がつかないのだろうとも思いました。
違った視点からのエッセーで非常に面白く読むことが出来ましたが、これらの作品をもう一度読んで見たい誘惑にも駆られました。
視点が面白い
★★★☆☆
いわゆる名作を、文章の書き方から分析するという点でなかなか面白く、読んでいて飽きなかった。
本書で取り上げられた作品の中でまだ読んでいないものついては、さっそく読んでみようという気になった。
ただ、帯にも引用されている、「書く」イコール「書き直す」というような考え方は、作者独特のものなのだろうが、私にはとっつきにくく感じられた。
文体にこだわってみると、新しい何かが見えてくるかもしれない気分になる一冊
★★★★☆
小説家・佐藤正午が月刊誌「図書」に連載した文章を改稿して一冊に編んだものです。
私の記憶が誤っていなければ、佐藤正午はエッセイ集「ありのすさび」の中で、こんな趣旨のことを書いていました。
「『書く』というのは『書き直す』ことと同義だ」。
どんな文章も語句の選定や句読点の打ちどころを、推敲に推敲を重ねて決めていくのが当然の理だと認識すべしという意味のことですが、推敲嫌いの私はそもそも文章を「書いた」ことなど一度もないのだと言われたようで、大いに赤面したものです。
本書「小説の読み書き」は、「暗夜行路」や「雪国」、「山椒魚」や「人間失格」といった著名な日本文学24編(+自作「取り扱い注意」)を、佐藤正午が読んで書いた感想文です。
佐藤正午は本書の中では、それぞれの作品のストーリー展開や構成立てといった点にはあえて注意を向けません。「書く」とは「書き直す」こと、と唱える彼は、作家たちの文体にとことんこだわって論を進めています。
ひとつの文を体言止めふうに書いて行ってさらに靴を履かせて先へ歩かせるようなスタイルを取る林芙美子と幸田文。
直喩を多用する三島由紀夫(の「豊饒の海」)。
性欲をそそるものについては詳細に研究されて書かれているが、性行為そのものは一行も書かれておらず、結果として慎み深さが作品全体に一定のトーンをもたらしている、谷崎潤一郎の「痴人の愛」。
もちろん、文体ばかりに気をとられる読書が良いとは私も思いません。本書によると菊池寛も小説においては内容的価値(主人公の生き方)が芸術的価値(文章の巧緻)に優先すると考えていたようで、私もその意見に与したい気持ちがあります。
とはいえ、本書のように文体を糸口にして物語の深遠な世界に分け入って行くことはひとつの手立てのような気がします。
高校生くらいの読者には得るところの決して少なくない一冊であると思います。