1947年は山田風太郎にとって特別な年だった。25歳になるその年の1月、『達磨峠の事件』が雑誌「宝石」の第1回短編懸賞で入賞したことにより、山田青年は作家デビューを果たしたのである。しかし青年はそれを無邪気に喜ぶことなく、いままでどおり医学生との二足の草鞋を履きながら淡々と創作活動を続けていく。文学よりも医学書を多く読み漁っているくらいである。その一方で、江戸川乱歩をはじめとする先輩作家たちと交流し、彼らの作品を酷評したり、他の作家たちにライバル心を燃やしたりしている。それらの記述から浮かんで見えてくるのは、推理小説を書き作家への道を模索しながらも、意識して推理小説や文壇からは一歩引いている、ある若者の孤高の姿である。
そういった山田青年の生き様と同時に、この日記は戦後の日本、あるいは推理小説界の状況を詳細に記録した一級の資料でもある。当時の日本はまだ敗戦の混乱から立ち直っていなかった。しかし新しい潮流が生まれてくるときに発せられる時代の熱と必死さというべきものが、日記の行間にあふれている。敗戦直後の「戦後」という時代がちょっぴり羨(うらや)ましく感じられるに違いない。(文月 達)