相互の衷心からの尊敬に裏打ちされたクレーメルとアーノンクールの共演は、多くの衝撃を聴衆に与えてきたが、このベートーベンは衝撃に加え、広範な聴衆の支持を得た演奏である。
まず印象的なのは、独奏バイオリンが名技主義と決別し、ひたすらリリックに歌いるづけることである。アーノンクールとの入念な検討の成果であろうが、かつてないほど独奏パートは<本質的な音>と<装飾的な音>に分析されて、再構成されている。従って基本的な旋律の歌い方は、古楽器奏者がバロック音楽においてする解釈と極めて接近する。確かにビブラートは、それほど抑制されていないが、歴史的奏法の基本に立ち戻って、アーティキュレーションとして効果的で必要な箇所に施されている。
ソロパートからわい雑物が排除され、表現が純化され、結果的に透明感とリリシズムが強調されることになった。これはウィーンの古いバイオリンの大家の表現に通じる印象があり、その意味でアーノンクールの確信犯的誘導?によるのかもしれない。
オーケストラは、ベートーベン交響曲全集でアーノンクールの意図を十全に表現したヨーロッパ室内管弦楽団を起用し、万全を期している。見事な運動機能とアンサンブル力であり、それはひとえに楽団員の指揮者に対する尊敬に由来するといってよかろう。いかなる一瞬をとっても透徹した響きに満ち、すべてのテクスチュアは自然な明晰さを持つ。ベートーベンの力感と佇立する巨大さは全く損なわれていないのに、ひたすらな整然・調和・透明が顕著である。
以上から出来上がった演奏は、総体として、ベートーベンから(20世紀後半の聴衆が気付かぬうちに混入していた)後期ロマン派的要素を払拭した。筆者はこの境地を「ひたすらな透明感がもたらした、ウィーン郊外の野の春の若草の朝露の香り」と形容したい。その意味で(アーノンクールの理解における)真に初期ロマン派的なリリシズムに満ちた演奏となった(モーツァルトとベートーベンはやはり違うのだ!)
カデンツァについて付言すると、作曲家自身の手になるこの曲のピアノ協奏曲版のカデンツァを基に、クレーメルが創作したもので、発売当時大変な賛否両論を起こした(カデンツァが、頻用されている<お定まり>のものだったら、このCDはもっと多くのレコード賞を受賞したであろう、とまで言われた)。もともとクレーメルはこの曲のカデンツァにはこだわりを持っていて、現代の作曲家のものを演奏したりしていた。
さて現在の聴き手は、10年前の(不毛の?)論争について、どう感じられるであろうか。はたしてカデンツァだけを理由に、レコード賞を逃すような非(反?)音楽的なものであったか否か・・・