気骨の判決
★★★★★
他社が取り上げないかもしれない、題材を選んだ点が評価できる。
「売れる本」というだけの発想ではなく、「出版する意義のある本」という
発想が非常に大切だと思っています。商業主義との両立が難しいところですが、
「出版する意義のある本」を出版していれば、「あそこの本は面白いぞ!」というイメージができるのではないでしょうか?
商業主義との両立ということで考えれば例えば、3冊出版する場合、1冊は「採算無視」の本にするとか、
そのような、ルールを決めていかれるといいのかもしれません。
最高裁判事必読
★★★★★
たまたま読んでいた「証言・私の昭和史」に翼賛選挙無効裁判の記事があり、ちょうど良いタイミングで本書に出会った次第。
テレビドラマ化されていたとは知らなかった(昭和34年じゃ当方小学4年で、知るわけもない?)が、改めて日本人(人間)も捨てたものじゃないと思わせてくれる著作。
学生運動に冷ややか(?)であったにもかかわらず、学生が警官に暴力を振るわれている雑誌記事を見て、黙ってバスを用意して学生たちに現場に行けと言ったという60年安保の時のエピソードが面白い。ジョージ・オーウェルがスペイン内乱で「一方に武器を持った警官、一方に民衆がいれば、民衆側に立つのは当然」と言った姿勢と同じ。
別の評者も指摘されていますが、なんで阿川弘之氏が推薦文を書いているのでしょう。「日本人の誇りとすべき史実」というところでしょうか。私なら「人間の尊厳を示す史実」としますがね。
小説仕立てのドキュメントとして読みやすいが・・・
★★★★☆
公判の模様等の記録がなく、1959年TBSで放送のテレビドラマ脚本から個別エピソードを紹介しているからではないが、ストーリーに沿わせるような構成など、どうも小説を読んでいるような読後感を持った。
吉田氏が苦学をし、大審院で小僧をして司法官に合格した経験から、「貧しい人にも豊かな人にも一切の予断を抱かずに平等に謙虚に耳を傾け、その人のことを全て信頼しようとする『人間主義』」をもって審理を行っていた点、ファシズムや権力の横暴・差別を徹底して嫌っていた点などから、軍人に対して起こされた訴訟に対し軍部が訴えの取り下げを命じるよう所長に命令してきたような、裁判に軍部が干渉する事態に苦々しく思っていた多数の判事の思いを代表するかの形で、翼賛選挙訴訟に原告勝訴・選挙やり直しを命じた、との内容だけでは吉田氏個人を賛美するだけで、今も続くシステム上の問題を問う書ではなく、その点に不満を持ち減点した。
著者は司法クラブ記者なので、3号俸以上の昇給差別、人事考課、10年に一度の再任制度に伴う任地・配属差別との本質的問題は周知であり、今以上と思われる当時の判事の人事権を伴う差別など吉田氏を取り巻く状況が記されていないのは大いに不満である。
また判決の4日後、氏は辞職しているが、 ここには殆ど言及されていない。
もし氏が辞職せずにいたならば、氏はどのように処遇されていただろうか?
そこへの想像力を働かせてこそ、氏の判決は活きてくる。
推薦人と本の内容が相容れない・・・・
★★★★☆
人間の自由な精神の尊重を取り上げた良書となっているのに、本書表紙の帯にある推薦人が、なぜ阿川弘之なのか?時代の状況に流されない空気が読めないKY判決は絶対に必要で、この判決は後世、益々評価されるに違いない。しかし、表紙に阿川弘之の推薦文があったことは、どうも納得がいかない、彼は少なくとも戦後民主主義とは、相容れない人物・・・・つまり弱い立場の人間が生きていきにくい社会を目指している人物であると思う。少なくとも民主主義信奉者の中には彼が嫌いな人は多いはず・・・・うーん表紙の推薦文のために複雑な感情を催したので、マイナス1点。
もし、吉田久が現代の裁判官だったらどうなるのだろうか
★★★★★
サブタイトルに「東條英機と闘った裁判官」とあるが、この本の主人公である裁判官吉田久は自ら望んで東條と闘ったわけではない。彼が厳として貫こうとした「司法の独立」そして「法律の厳格な適用による公正な判決行為」が、当時の東條内閣が目指すものと相容れなかったため、結果的に闘うことになったのである。さらに東條内閣=日本なのであるから、実質的に吉田は国を相手に闘い司法の独立を守ろうとしたことになる。
当時の状況を考えればこれは凄いことだと思う。彼が今の時代に生きる裁判官だった場合を考えてみた。
現代社会において、国が被告となる事件を裁くことはあっても、裁判官が生死をかけて国家と対立する場面は考えられない。
しかし、殺人事件などであれば彼の判決は想像できないでもない。例えば、ある事件において被害者以外の人達(=マスコミといってもいいが)が考える量刑が軽い場合、その裁判官に浴びせられる言葉は「被害者感情を考えていない」「裁判官の常識は一般国民からずれている」といったものだが、吉田はこの言葉を浴びせられる裁判官になる可能性があるのでは、と考えるのである。当時の吉田の判決は間違いなく“空気の読めない”判決であったはずだ。
裁判員制度が導入される理由として、一般市民の意見(これは常識という言葉にも言い換えることができる)を取り入れるためという考えがあるが、個人的には首を捻ってしまう。なぜなら、裁判所は“立法府”ではなく立法府によって成立する法律を“厳格”に“慎重”に解釈して判決を下す場所だからである。
被害者感情に基づけば、犯人に対して厳罰化を望むのは当然である。しかし、それを同じくマスコミが被害者感情にのみ根拠を得て、判決を空気が読めないと批判するのは間違いであると思う。吉田久という人間の行動に素直に感動すると同時に、彼が現代に生きる裁判官だったらということを考えずにはいられなかった。