観たくても観賞できなかった「戦争画」を網羅
★★★★★
戦争画を描いた藤田嗣治は、戦争責任論から一番にやり玉にあがり、結局フランスに帰化したまま日本に帰らなくなりました。小磯良平も自分の作品集に戦争画を所収することは拒否したように言われています。画家たちにとって触れられたくない作品群であったのかも知れませんし、戦後GHQに没収され、日本には無期限貸与として返還されるという扱いの作品群ですから、なかなか現代でも見ることが適わない作品を出版した価値は図り知れません。
いきなり、藤田嗣治の「アッツ島玉砕」が掲載してあります。実際美術館で一度見たことがありますが、国威高揚という軍部の意図とは別の凄惨ともいえる描写の凄まじさには声も出ません。後世に残したかったという藤田の意欲は如実に伝わります。「サイパン島同胞臣節を全うす」でも現地を知るわけもない藤田がその最期をある種の宗教画のような趣を込めて描いています。悲惨ですが、画家の執念が感じられる凄みを持つ作品です。
16ページの小早川秋聲の「国之楯」は、天覧を拒絶されたというエピソードをもつ作品でした。出征兵士の寄せ書きの日の丸を顔にかけ、横たわる軍人の姿はそれだけで胸を打ちます。手伝いにきた女性が画を見てその場に泣き伏した、というのが大げさでなく感ぜられる作品です。戦争画が全て戦意高揚というくくりでは評価できないものだということを知る作品でもあります。この作品を描いた気持ちは小早川秋聲の父が東本願寺の住職で、母が武家の出であったことにつながるのでしょう。陸軍省が拒否の理由も分かる気がしました。戦死者を描くことは実に難しかったのです。
宮本三郎の有名な「山下・パーシバル両司令官会見図」は帝国芸術院賞を受けたわけですが、作品の出来もさることながら、歴史的な会見を描けるという画家冥利が作品から感じられますし、本人もそのように語っていたようです。
同じく帝国芸術院賞を受賞した小磯良平の「娘子関を征く」は、彼の特徴がでている作品ですが、それでも後にこの作品たちは負の遺産になったのでしょう。
川端龍子、向井潤吉の作品も所収してありますし、小川原脩の「雪」はまさしくシュルレアリスムの雰囲気が漂う見事な作品でした。ラストには横山大観の富士を描いた「神洲之正気」が収められています。大観号を贈り、お国のためにと描き続けた大観の思いはいかばかりだったでしょうか。
いまだ評価の定まらない戦争画の複雑さ
★★★★★
小早川秋聲の<国之楯>(1944年)をみれば瞬時に戦争画をめぐる問題の複雑さが理解できるだろう。作者に反戦画を描く意図はない。しかし日の丸を顔に被された兵士に、国の楯として若者を死に追いやった戦争の残酷な一面を見出すことができる。戦意高揚どころか、逆に反戦の一歩手前まで見る者を引きずり込む力を持っている。それがわかり、陸軍はこの作品の受け取りを拒否した。
戦争は生者ではなく死者が主役である。死者を顕揚すること、兵士は犬死ではなく大儀のために勇敢に散ったのだと伝えること。それは戦争を聖戦とするために欠かせない儀式だが、死者の勇敢さを讃えるほど、その勇者を死なせた戦争の悲惨さへ思いが及ぶのも避けられない。
明治期に始まった日本の洋画が、当初スペクタクルを描く歴史的題材に事欠いていたのは事実だろう。花鳥風月を描いた日本画を超えるために、壮大さ・厳粛さを持ち得る戦争は欠かせない題材であったはずだ。戦争によってはじめて日本人自身の切実かつ壮大なテーマを洋画で描く機会が生まれ、藤田嗣治を筆頭に近代日本洋画は一つの達成を迎えた。画家たちは戦争協力/反戦というスタンス以前に、千載一遇の題材を得て、一人の芸術家として必死に戦争を描いたのは間違いない。
<アッツ島玉砕>など、原寸大の迫力は凄まじいものがあるが本書の図版でも十分に恐怖を覚えるはずだ。これらダイナミックな戦争画はそれぞれ真摯に死者を弔いながらも、その画力の高さ故に戦争のグロテスクな一面を否応なく日本人に突きつける。マッカーサーが扱いに苦慮し、現在までその正式な所有者が定かではないように、戦争画はプロパガンダであり芸術であり戦争の記録でもあり、図らずも反戦芸術にもなり得た。軍国主義芸術であり画家は戦争協力者として断罪する前に、その存在の曖昧さを、戦後の私たちは画家たちの覚悟とともに引き受けなければならない。
絵だからこそのメッセージ
★★★★★
藤田嗣治作の「アッツ島玉砕」等の画は、小さい版形を忘れさせる鬼気迫る作品なのだと実感させてくれます。
また、小早川秋声の「国之盾」は天覧を拒否されただけの事はある、無言のメッセージを伝えてくれます。
この一冊の「重さ」は、安価な価格を遥かに超えています。
なお、おそらくジャンル的に入らないのでしょうけれども、戦時中の少年誌に掲載された空想科学戦をテーマにした小松崎茂の作品等については触れられておりません。