買いです。
★★★★☆
本作は、「わたしは女性には縁がなかった。」と語る主人公が、メルヴィルの「代書人バートルビー」に由来する、「心の奥深いところで世界を否定している」「バートルビー族」の作家たちの「足跡」をたどるという体裁を取ってはいますが、あまりにもその「足跡」の、全体に占める割合が大きいため、いつの間にかいわゆる「小説」を読んでいるというよりも、文学論かなにかを読んでいるような気持ちにさせられます。しかし、二十五年間創作から遠ざかり、「ぞっとするような事務所で働いている」主人公が、鬱病を口実に仕事をサボったり、「一度詩人の声を聞きたいと思って大勢の聴衆の中にもぐりこんだ」り、「クラスメートのルイス・フェリーペ・ピネーダ」のことを回想したりした挙げ句、事務所を「首になった」りする様は、「バートルビー族」の作家たちと軌を一にしていることが明らかであり、自らを肯定し正当化するためだけに「バートルビー族」なるものを措定し、その系譜を作っていると読むと、そこから浮かび上がってくる人間像は、ひどく屈折した赤瀬川原平(「トマソン」とか「老人力」とかです)といった趣きで、結構楽しむことができます。考えてみれば、いわゆる「小説」が他者との関わりを通して話を転がしていくのに対して、本作ではそれが「先行するテキスト」になっただけで、やはりこれも小説なんですよね。ただまぁ、映画化は絶対に無理だとは思いますが。
素晴らしきかな人間
★★★★☆
もったいないなー。もっといろいろ読んだ後ならもっと楽しめたのに。メルヴィルとかカフカとかサリンジャーとかランボーとか、そういったメジャー作家しか知りませんでした。
若き日に小説を一作だけだして、書けなくなった語り部が、すべてに対して「好ましくない」「No」というバートルビー症候群の作家を追いつつ、書くという行為の本質に迫るかなり異色の小説です。本書に登場する書かなくなった作家の様子が非常に好奇心を刺激します。
書くことを追究していって書かないことを一つの表現手段として選択した作家、書こう書こうとして書くものが四散して書けなくなった作家、奇妙奇天烈な「言い訳」を放って世間から隠遁した作家。この作家知らない、知らない、そもそも作家じゃない、でもこの悩み方はわかる・・・といったかんじでのめり込んでしまいました。バートルビーにはなりたくないし、関わり合いにもなりたくないけれど、人間のへんてこな面白みが詰まった本かと思います。
同業者だけが興奮する作品
★☆☆☆☆
感極まって興奮しているレビューの人もいるようだし、
フランス「外国最優秀作品賞」も受賞してるし、
同じ感動を持つ人ばかりではないのが本という物なのでレビューを短く書きます。
書けなくなった作家たちの言い訳から書くことの意義を見出すのは、同じ同業者だけだ。
読書を愉しみたい純粋な読者にとってみれば、全くお勧め出来ない。
おもしろいけど、バートルビーは「仲間」を認めない・・・
★★★★☆
本書を手に取ったとき、なぜか「やられた!」と思ってしまった。
ハーマン・メルヴィルの異形の短編『バートルビー』こそ、現在の評者のヒーローだったからだ。『バートルビー』に比べれば、カフカのグレーゴル・ザムザの物語も筋が通っている。
ソクラテスは書物を残さなかった、ランボーは詩を捨てて放浪の旅へ出た、サリンジャーはひきこもった、ヴァレリーは数学の勉強に専念し、カフカは手稿に書き付けた作品を焼いてくれといって昇天した・・・・。
途絶、中断、沈黙、引きこもり。これらのマイナス方向への斥力とでもいうのか、上昇志向と一人勝ちを旗印に、ひたすら自己啓発に励むビジネス文明を称揚する現代にとっての大いなる斥力。異形の存在。
代書屋バートルビー「自身」と「バートルビー・シンドローム」の物書きたちとは、それぞれが随分と異なっているようにも思うが、バートルビーのことを、あるいは書けなくなって沈黙した詩人、逃げ出した作家、雲隠れした元作家たちのことを記憶に刻むためだけにでも本書の価値はある。
トム・ルッツの『働かない』(青土社)という本もついでに挙げておこう。これは「働いてられるか」シンドロームの博物学的怪著だ!!!
まあ、バートルビー問題などといってみても、バートルビーは批評家の説明を拒む存在なのだが。アガンベンの『バートルビー』をネタにした文章「偶然性について」の陳腐なこと!!!
<働かないのに事務所に居続ける青年バートルビー>について、「<する>ことも<しない>こともできる潜勢力」などといっても、何もわかりはしない。
事務所勤めというものは、会社というものが「発明」されて以来、あるいはもっと早く官僚組織というものができて以来のものだろうが、なるほど官僚組織も会社も西洋由来なのかもしれない。とはいえ、アメリカ作家メルヴィルの作品に「忽然と現れた奇妙な」青年バートルビーは、西洋哲学由来の思考では解けない。勿論、東洋哲学でも解けないだろう。
バートルビーこそ解釈を拒むものだからだ。在るがまま、在り得たまま。本来、効率的であることをその存在目的とする会社のなかに、バートルビーが在ったとき、哲学は、特に西洋哲学はただ右往左往するしかないのではないか。なぜなら、西洋哲学の筋道は「在る」を中心に世界をことごとく解明しようとするものだからだ(木田元の新著に倣うなら、「反哲学」の系統が参上してきて、プラトン、デカルト、ヘーゲルの悪しき合理主義を廃棄するということになるのだろうが、これまた疑わしい)。
バートルビーは無力だが、そしてそれは極めて現代的だが、あらゆる解釈を拒み続ける。
そうすると、バートルビーシンドロームという西洋由来のレッテルも無効力というべきか。
この点、バートルビーとエンリーケ・ビラ=マタスの『バートルビーと仲間たち』に登場する仲間達は決してお仲間ではない。バートルビーは言うだろう。「できれば、仲間にならないほうがいいのですが」と。