そういった「自分と異なる人間」への理解が決定的に欠如している人間(しかも哲学者だという!)の書いた書物がどのようなものであるかはもはや想像がつくだろう。結果として、デリダという難解な思想家に対する反感のみを醸成する書物となってしまっているようにわたくしには思える。この本以来、わたくしは脱構築がすっかり嫌いになってしまった(スピヴァクまでとばっちりを受けてしまっている)。
星一つでも多すぎるくらい。
保守派論客と議論や対話のできる左翼系知識人を待望。
デリダといえば「脱構築」という術語で有名であるが、果たしてそれを定義付けることなどできるのであろうか。デリダが亡くなったあと、あるテレヴィ番組で名だたるフランスの哲学者がデリダに関する発言を求められていた。しかしながら「脱構築とは何か」という問いに対し、哲学者たちは納得のできる回答を提出できなかった。アラン・フィンケルクロートに至っては会場の失笑すら買っていた。やはりある種の困難がそこにあるのである。
ただこの本を評価するとしたら、デリダの文学理論に留まらず、簡単ではあるが政治、倫理、宗教について記述していた点であろう。未だ邦訳が出ていない『信と知』にも言及していた。しかし、もう少しレヴィナスとの関係について語っていれば、それなりの内容になったのではないか、と思っている。ハバーマスが指摘している通り、ある意味レヴィナスはデリダの「師」であった。
また、ここで言うべきことではないだろうが、何ゆえデリダの『撒種』『プシケー』が未だ未訳なのであろうか。