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デリダ (現代思想の冒険者たちSelect)

価格: ¥1,575
カテゴリ: 単行本(ソフトカバー)
ブランド: 講談社
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いいよ ★★★★★
大した苦労もなく理解できるものだけが入門書ではない。とりわけ哲学書では、そこに記されている論点を、立ち止まってじっくり考える努力を求められる。そうした努力をまったく要請しないまま、「分かったつもり」にさせるようなものは、入門書としては価値が低い。
著者のこの本は、その点で立派に入門書としての役割を果たしている。デリダ哲学の主要な論点を整理し、素人でも理解できるような形で提示している(その意味では、「分かりやすい」といえるかもしれない)。あとは、読者の姿勢や努力次第だ。多少ページを繰るのに時間がかかろうとも、理解しようという姿勢で臨めば、ここに書かれていることも十分飲み込めるはずだ。
ただ、これが「高橋的デリダ」であることは、お忘れなきよう。
出発点として ★★★★☆
大した苦労もなく理解できるものだけが入門書ではない。とりわけ哲学書では、そこに記されている論点を、立ち止まってじっくり考える努力を求められる。そうした努力をまったく要請しないまま、「分かったつもり」にさせるようなものは、入門書としては価値が低い。
著者のこの本は、その点で立派に入門書としての役割を果たしている。デリダ哲学の主要な論点を整理し、素人でも理解できるような形で提示している(その意味では、「分かりやすい」といえるかもしれない)。あとは、読者の姿勢や努力次第だ。多少ページを繰るのに時間がかかろうとも、理解しようという姿勢で臨めば、ここに書かれていることも十分飲み込めるはずだ。
ただ、これが「高橋的デリダ」であることは、お忘れなきよう。
デリダへの、ありうる入門書=オマージュ ★★★★☆
厳しいめの評価が多かったので、あえて肯定的評価を。
じゅうぶんに分かりやすい本です。特に初期(プラトン論)と後期(宗教、政治、法の問題)のデリダの仕事に重点が置かれています。「プラトンのパルマケイア」は基礎的論文ですが、いまだにアクセスしやすい翻訳がないので貴重だと思います。
「靖国問題」もそうですが、高橋氏の著述は明快です。勿論異論のある人も
あるでしょう。でも高橋氏の文章を読むことで、自らの異論のスタンス自体
が明確になるはずではないでしょうか。
感情的な好悪は意味がなく、必要なのは議論でしょう。
この本は入門書なんですよね・・・ ★☆☆☆☆
 わたくしが高橋哲哉の悪口を執拗に書くのは(笑)彼が今や良心的知識人なるものの代表として広く認知されているからである。別のところでも書いたが、彼の知識人、あるいは哲学者としての致命的な欠点は「立場を同じくしない人間への配慮、他者への理解、そして説得の技術の欠如」である。そして、それがある意味最悪のかたちであらわれたのが本書である。
 入門書というのは、はじめてその事柄に触れるひとに対して、どうしたらある事象、概念になじんでもらうのか、考えながら書かれるものではないか。ある程度の予備知識のある人間に、斬新な見方、さらに突っ込んだ見解を披露することはある意味簡単だ。そうではなく、入門書には、ほんとうにはじめての人間、つまりこの場合は脱構築から「疎外」されていた人間を、暖かくその世界に取り込む努力が求められる。

 そういった「自分と異なる人間」への理解が決定的に欠如している人間(しかも哲学者だという!)の書いた書物がどのようなものであるかはもはや想像がつくだろう。結果として、デリダという難解な思想家に対する反感のみを醸成する書物となってしまっているようにわたくしには思える。この本以来、わたくしは脱構築がすっかり嫌いになってしまった(スピヴァクまでとばっちりを受けてしまっている)。

 星一つでも多すぎるくらい。

 保守派論客と議論や対話のできる左翼系知識人を待望。

もう少しデリダの後期思想に触れてもらいたかった・・・ ★★★☆☆
このシリーズはなかなか面白かったが、「デリダ」に関してはいかがなものか、と思った。デリダの入門書など、果たして可能なのだろうか。

デリダといえば「脱構築」という術語で有名であるが、果たしてそれを定義付けることなどできるのであろうか。デリダが亡くなったあと、あるテレヴィ番組で名だたるフランスの哲学者がデリダに関する発言を求められていた。しかしながら「脱構築とは何か」という問いに対し、哲学者たちは納得のできる回答を提出できなかった。アラン・フィンケルクロートに至っては会場の失笑すら買っていた。やはりある種の困難がそこにあるのである。

ただこの本を評価するとしたら、デリダの文学理論に留まらず、簡単ではあるが政治、倫理、宗教について記述していた点であろう。未だ邦訳が出ていない『信と知』にも言及していた。しかし、もう少しレヴィナスとの関係について語っていれば、それなりの内容になったのではないか、と思っている。ハバーマスが指摘している通り、ある意味レヴィナスはデリダの「師」であった。

また、ここで言うべきことではないだろうが、何ゆえデリダの『撒種』『プシケー』が未だ未訳なのであろうか。