しかし、他方で、私は、師匠、家元は、古典落語と言う芸が、現代社会でどう位置づけられるか、将来にわたって継承できるのか、日ごろから悩まれているのを、高座でもお聞きしましたし、様々な対談などでも聞きました。もちろん多くの著作にもそういうことが描かれています。
ただ、ここ数年、ご病気のこともあってか、あるいは、古今亭志ん朝師匠の急死とか、落語会への危機感であせっているように感じてなりません。
そういうお気持ちが、行間に現れているので、やや切なく感じました。
大丈夫、家元は死んでも生き返ります。「頭をよくつぶしたか?」と言われるお方です。あせらなくても大丈夫。
余裕綽々の芸談をお書き下さい。
「落語家とは、知性とか、常識で世の中処理しているつもりでも、
そこに生じる無理があって、それを解消する手助けをするのが稼業なのだ。」と。
談志によって語られる落語演目、例えば「粗忽長屋」
その演目で繰り広げられる、長屋の熊公のアイデンティティとは?
熊公は、同じ長屋に住む八公に「お前は、浅草の観音様の前で死んだ」
と言われ納得してしまう。
!しかも、熊公は死体を抱きながら言うのだ。
「抱かれているのは確かに俺だが、抱いてる俺は一体誰だろう?」
これが「粗忽長屋」の落げ。
単なる馬鹿話だと思った人、それは違う。
この咄は、与えられた情報から、何かを判断し、
そしていい気になっている現代人の姿でもある。
私は「かくがくしかじか、こういうもんです」なんていったって、
「てめぇなんて、じかじかがくかく、なんだよ」て言われたら、ハイそれまで。
で、アイデンティティと世間体の解離に悩んじゃったりとか。
けど、これが人間なんだ。人間なんて自分で思っているほど強くない。
最近つとに、そう思う。自分ってホント弱いんだなって。
しかし、だからこそ強くもある。
日本の大切な文化である落語は、
そういった一!番大切なことをウィットをもって教えてくれる。
合理化の荒らし吹く彷徨える時代に、その価値は燦然と輝いている。