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国家と犠牲 (NHKブックス)

価格: ¥966
カテゴリ: 単行本
ブランド: 日本放送出版協会
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読み応えがありました。 ★★★★★
 「敬意と感謝」を捧げ「顕彰」することによる死者の聖別化、という犠牲の論理(あるいは悲憤を誇りに変えるという「感情の錬金術」)が、昨今話題の靖国神社のみならず、近代国家一般に共通するものであることを示した著作です。たとえば、フィヒテやルナンについて論じた第5章は、ドイツとフランスの「国民」観の違い(勉強になりました)を概観しながらも、両者を通低する政治的な犠牲の論理を探り出します。また、キリスト教の神が世俗化したものが国民国家である、という思想史家カントロヴィッツの主張、1970年代に正戦論を復活させた国際法学者マイケル・ウォルツァーの議論の紹介、等々も興味深かったです。
 しかし、何より衝撃的であったのは、各章を通じて分析されてきた国家の「犠牲の論理」は、実はあらゆる社会が日常的に胚胎しているものであると喝破した最終章でした(第13章「デリダと絶対的犠牲」)。ただの反国家主義あるいは絶対平和主義によっては、犠牲の論理からは逃れられないことが説得的に示されているのです(「人は絶対的犠牲から逃れられない」)。この世界における自らの在り方にまで省察を迫る、まさに哲学書です。著者も認めているように、答えは簡単には出ません。しかし、問題のありかを知っておくことは有意義だと思います。
『靖国問題』とセットで! ★★★★☆
「国家」と「尊い犠牲」の関係とはなんなのか?著者はこのような問題に対し、前著『靖国問題』(ちくま新書)においては、「靖国」というシステムの持つ、二つの位相のうち、「近代日本国家に特殊な位相」をフォーカスしたのに対し本書では、「他の国にも見出される一般的な位相」に分析の光を当てる。『靖国問題』と続けてセットで読むといいと思う。

第一部では、日本における「靖国」や自衛官殉職者のメモリアル、ヒロシマ・ナガサキの語られ方が論じられ、続く第二部では、主にヨーロッパの歴史における、祖国のための「犠牲」が持ってきた意味に焦点が当てられる。そして最後の第三部では、国家や社会が普遍的に抱いている「犠牲の論理」は克服できるのか、というとても難しいテーマを扱っている。

第三部におけるマイケル・ウォルツァーの正戦論の検討、韓国にも見られる「犠牲の論理」などに関する点は、新鮮で興味深いものがあった。

共同体を身を挺して防衛するために、共同体が真っ先に命を奪われる存在として育成する集団こそが軍隊であるとの指摘にははっとさせられるものがある。「軍隊、常備軍という存在は、それ自体が犠牲の論理によって成り立っている」(P208)というのである。

著者も言うように、軍隊を捨てた国コスタリカですら国境警備隊を保持している以上、完全に軍隊を持たない国は非現実的である。「犠牲の論理」なき国家・社会は不可能でないかとすら思える。

難しいテーマを扱っているだけに、率直に言って、著者もスッキリとした結論は出していない。

P233「あらゆる犠牲の廃棄は不可能であるが、この不可能なものへの欲望なしに責任ある決定はありえない。」
その通りである。無理だ不可能だと諦め半分に決めてかかるのではなく、常に犠牲のない社会を模索し、考え続けること。それこそが、「靖国」のもとに多くの人々が死んでいった歴史を繰り返さないためにも不可欠である。


思想から始まる論理 ★☆☆☆☆
 論理のつながりは良いかもしれない。しかし、全ての論理の起点が筆者の思想に基づいているため、その思想に同意できない者としては全く納得できない内容だった。「国家の品格」を想起させられた。他の著書からも分かる通り、筆者はいわゆる「サヨク」であり、国家の論理に対しても、「サヨク」的な視点から論じている。これで、大学の教科書として用いられているのだから、日本は「自虐史観」から当分抜け出せそうにない。もう少しでも理論的な分析ができれば教育機関で使われてもよいと思うが、戦争や慰霊の事を初めて学ぶ人には勧められない。
国家のための犠牲は、簡単に尊いと言えるのか? ★★★★☆
「犠牲」という言葉を中心に、
日本、韓国、ヨーロッパなどでその言葉が使われてきた
歴史の背景や比較を踏まえながら、言葉の中身を探っていく好著である。

もし、広島と長崎への原爆投下による犠牲者が「尊い」と言われれば、
その背景を踏まえると違和感を覚える人が多いと思う。しかし
2002年に両地域に国が建てた原爆死没者追悼平和祈念には、はっきりと
そのように記されているようである。
それは、天皇の戦争責任議論回避のための慎重な言い回しとはいえ、
本当に被害者やその遺族やのためでなく、
あくまで国家が体面を保つために都合よく「尊い犠牲」という言葉を
選んだという意図が、この場合よくわかる。

他にも
中世ヨーロッパでは、「尊い犠牲」は教会のための、つまり
宗教的側面として成り立っていたが、その方向が、
教会から国家にすりかわったとするカントロヴィッチの主張、
国家は「犠牲の感情による連帯心」であると主張するルナンなど、
ナショナリズムの成立に関心がある人にもお勧めできる。

犠牲なき世の中は起こりうるのか、
果たして著者のその答えは…。
人は他人のために生きている ★★☆☆☆
例えば、何か悪さをみつかり叱られている高校生女子が開き直るように発言する、「誰にも迷惑かけてないんだからいいでしょ!」、すると叱っている側の大人が言葉に詰まってしまうような光景はよくあるのだろう、叱る大人自身も誰にも迷惑をかけなければ何をしてもいいと常日頃考え行動しているからである、両者ともきわめて想像力に欠ける人格というべきである、誰にも迷惑をかけないことなどあるわけがない!っと一喝するのが大人の役目なのだから、

(最近、毎晩のようにテレビに登場し毒舌のようなものを振るう老女が大きく支持されているのは彼女が誰をも一喝できる稀有なキャラクタを備えているからだろうと思う、いうまでもないことだが、彼女の価値観は実に「当たり前」の正論にすぎないのだが)

日日、日常を送る限り誰でも何がしかの些細な迷惑を他人に及ぼし及ぼされるのが当然のことである、それでも人は他人に尽くそうとするものだ、わずらわしいと思いながらも自然に体が動いているのが普通であろう、この著者の本を読む度に思う、彼が考えるのはいつだって「ぼく自身」、自分自身である、誰かの為に何かをしてあげるという姿勢の欠如が評者を苛立たせる、著者が頻繁に使用する「犠牲」という言葉が醸し出す後ろ向きな姿勢にも苛立ちを覚える、若い研究者諸氏は日本史における犠牲という言葉の普及について研究すればより深い批判が可能だろうとおもいます、犠牲とは台風災害の犠牲者といった使い方が本来のものと考えるからです、それがいつのまにか戦争の犠牲者、そして国家の犠牲者に流用されているわけで、研究すればサクリファイスとの関連も指摘できるでしょう、