(最近、毎晩のようにテレビに登場し毒舌のようなものを振るう老女が大きく支持されているのは彼女が誰をも一喝できる稀有なキャラクタを備えているからだろうと思う、いうまでもないことだが、彼女の価値観は実に「当たり前」の正論にすぎないのだが)
日日、日常を送る限り誰でも何がしかの些細な迷惑を他人に及ぼし及ぼされるのが当然のことである、それでも人は他人に尽くそうとするものだ、わずらわしいと思いながらも自然に体が動いているのが普通であろう、この著者の本を読む度に思う、彼が考えるのはいつだって「ぼく自身」、自分自身である、誰かの為に何かをしてあげるという姿勢の欠如が評者を苛立たせる、著者が頻繁に使用する「犠牲」という言葉が醸し出す後ろ向きな姿勢にも苛立ちを覚える、若い研究者諸氏は日本史における犠牲という言葉の普及について研究すればより深い批判が可能だろうとおもいます、犠牲とは台風災害の犠牲者といった使い方が本来のものと考えるからです、それがいつのまにか戦争の犠牲者、そして国家の犠牲者に流用されているわけで、研究すればサクリファイスとの関連も指摘できるでしょう、