当時私は高校・大学生であり、「尾崎教」と呼ばれるほどのカリスマ性を備えた尾崎豊の信奉者だった。「人生とは?」「真実とは?」という、極めて抽象的かつ総体的なことばかり考えていた。私がここで口にするまでもないが、これら作品群はそんな私に社会のスピードの狭間においてよもすると瞬時にして忘れ去られる人々に対し、暖かく丹念な視線を送ることでその個々人にもいわゆる著名人と呼ばれる人々に負けない「ドラマ」が内在しているということを教えてくれた。
決定的に「私を変えた」のは、実は「月間カドカワ」紙上における尾崎豊と沢木氏の対談であった。カリスマと呼ばれながらもすでに彼は「大人社会への疑問・反発」を歌うには年をとりすぎていて「詞が書けない」ことに悩んでいた。沢木氏はそんな彼の話にじっくり耳を傾け、ときに「誘い水」を差すことで彼の苦悩を吐露させ、尾崎自身も同紙上で感謝の弁を述べている。
私も周囲の人々・事象の「個」を見つめ続けていきたい。沢木氏ほどの「人の心を開かせる天賦の才能」には遠く及ばないとしても。
沢木さんの作品の魅力はその文章力、取材力もさる事ながら、僕は目の付け所と信頼性にあると思います。目の付けどころとはそのまま取材対象。例えば右翼の少年であったり、詐欺を繰り返していたお婆ちゃんであったり。『鼠たちの祭』では先物市場の相場師たちにスポットを当てています。
信頼性もそのまま。最近どこまでがノンフィクションなのか見分けのつかない作品、作家が多すぎます。沢木さんの作品からはノンフィクションへの、良い意味での服従を感じます。無批判になる必要はありませんが、そんなところから、僕は彼の作品に信頼がおけるのです。