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民主主義とは何なのか (文春新書)

価格: ¥735
カテゴリ: 新書
ブランド: 文藝春秋
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   民主主義を称揚するのはたやすいが、疑義をさしはさむのは容易ではない。猛烈な反発に立ち向かう勇気と膨大なエネルギーが必要だからだ。本書は知のエネルギーを最大限にふりしぼって、民主主義の「いかがわしさ」に挑んだ渾身の労作である。

   近代民主主義を語るとき、まず思い浮かべるのは「人権宣言」である。しかし、フランス革命が人権の名のもとに「共同体の伝統的生活」を破壊し、ジェノサイドを行うのを間近に見た当時のヨーロッパ人にとって、デモクラシーは「無気味なもの」であった。その「いかがわしいデモクラシー」を「紛れもなく正当な言葉」に大転換させたのは、第1次世界大戦の戦勝国だった、と著者はいう。

   もともと「だれも欲しなかった戦争」を大戦にまで煽り立てたのは、かつてトクヴィルが恐れた「民主主義の大洪水」にほかならない。民衆は戦争の大義に「デモクラシー」を求め、いつしか戦争は「軍国主義ドイツ対民主主義国」に図式化され、そして軍国主義に勝利した民主主義は「おそろしく強引な論法」によって「よい意味を確立」した。その「いかがわしさ」はナチズムの誕生で頂点に達するのだが、著者はこのように民主主義にビルトインされた僭主制の危険性をアテナイの民主政治にさかのぼって説き明かす。

   民主主義の根幹である「人権」に対しても、著者の目は容赦ない。「人権」の概念を初めて提示したのは、17世紀イギリスの思想家トマス・ホッブスである。個人が己の「自然権(人権)」を放棄し、人間相互の「安全保障契約」を結ぶプロセスを保証するのが、ホッブスのいう「主権」で、これは「独立宣言」と「人権宣言」が「創造主」ないし「至高の存在」によって与えられたとする「人権」とは正反対のものだった。

   ホッブスの主権は2つの宣言を通る過程で闘争的権利に変質する。その結果、現代民主主義社会は「悪玉」を求めて「権利」が増殖する混乱状態に陥ってしまった。ホッブスの思想をこのように倒錯させた張本人はジョン・ロックである。この思考停止状態を抜け出して「国民のための政治」を考える出発点に立つには、ロックのペテンにいち早く気づくことである、と著者は言うのである。(伊藤延司)

超駄作 ★☆☆☆☆
著者は「民主主義」の欠陥を強調するのに夢中になっている。しかし民主主義が衆愚政治に陥る恐れがあることは常識だ。それでも独裁主義よりましだというのが現代の通念だ。著者はプラトン流の「哲学者王」による独裁政治でも望んでいるのかと勘ぐったが、そうでもないらしい。民主主義の実態の改善を目指しているらしい。終わり近くになって、「人民のための政治」を実現するための不可欠の手段として「人間の理性を復活させること」(222)を主張している。しかし「知的謙虚」だけで「理性」は復活するだろうか。
著者の自分の国、日本についての発言にはただ呆れるほかはない。「わが国の伝統的な政治思想━天皇は皇祖皇宗の教えにより、民を『おおみたから』として第一に重んじる━もその典型的な一例と言えよう。」(50)というが、そんな「伝統的な政治思想」がいつからわが国にあっただろうか。また、「圧迫されていた国家は反撃に転ずる。そのようなごくありふれたメカニズムで起こったのが大東亜戦争であった。」(42)というが、大東亜戦争の発端となった「支那事変」はどんな圧迫への反撃だったというのか。さらに、「当時の日本において、人間ひとりひとりが『大衆』ではなく『人間』として尋常に振舞っていたということ自体が、稀有のことと思われてくる。」(43)というが、当時の日本人は《現人神》崇拝の《天皇教》の信者として異常に振舞っていたのではないか。
著者は日本人が「理性を復活させること」よりも、日本人が「伝統的な政治思想」=《天皇教》に復帰することを理想としているのだろうか。そうなれば、確かに「民主主義」は吹っ飛んでしまうだろう。
しかし、それでも廃棄ということにはならないのでは? ★★★☆☆
ゼロ年代以降「ネットの民主主義」がこうも頓挫した後では、もはや魅力も
半減してしまったといえるかもしれないが、それでもまだほのかに、民主
主義というものがよいものであるということを、多くの人が感じているので
はないか。

本書が描くのは、そんな民主主義がこれまで歩んできた「いかがわしい」
歴史だ。欧州各国の指導者らのその指導力不足ゆえに「世論」を前になし
崩し的に開戦した第一次世界大戦や、実は悲惨だったフランス革命。さら
には紀元前までさかのぼり独裁者への恐怖心から将軍らが次々に「民主
的」方法によって処刑されていったアテナイ民主政。

さらに著者の批判の矛先は、実は「闘争的な概念」なのだという「国民主
権」や、我々が信じてやまない「人権」においても、実はその始原において、
“ある思想家”のしたてた「インチキ」が下敷きにあると明かす。

だが、そういった民主主義批判、国民主権批判、人権批判がつづいた後、
著者自身の考える「ではどうする?」が見えてこないのだ。「理性の復権」
というが、そんな曖昧な言葉ではなく具体的な政治体制はなんなのか。そ
の段になったとたん、著者の明瞭快活な筆はそれまでが嘘だったかのよ
うに口ごもる。もしかすると、理性が復権するにせよなんにせよ、依然我々
は「民主主義」しか選ぶすべはないのではないか。

それにこれを言っては元も子もないが、文章を著し大量印刷してそれを売り、
「自分の意見を一般大衆に問う」という著者自身のこの『民主主義とは何な
のか』という出版活動も、元をたどれば民主主義の立派な所産ということに
なるのではないか?
なぜ著者が新たな政治体制を口にしないかというと、どんなに醜悪であろう
と、我々は民主主義以上に「ましな」ものを見たことがないからだ。
だからチャーチルも言っていた、たしかに民主主義はあらゆるシステムの内
で最悪であると。そこで問題なのは、他のどのシステムも民主主義以上で
はないのだ、と。
民主体制 ★★★★★
民主主義という戦後、不倶戴天のものになった思想に対する研究書です。
かつてハイデガー研究者だった著者らしくデモクラシーという言葉の変遷から
民主主義が出来上がるさいに影響を与えた思想家たちを検討していきます。
福田歓一の新書をもとに欧州でも民主主義がいかがわしい概念であったことを
述べていきます。
特にフランス革命で出た膨大な犠牲者については90年代後半から再研究がやっと
はじまったばかりですし注目に値します。
フランス革命だけでなくレーニンの革命についてもまだまだ日本では学者による
研究が停滞(60年代的)なままなのが現状ですので、最新の研究書とあわせて
読むとよいでしょう。
特に民主主義は左派(極左ではなく)によってしか論じられてこなかった日本では
このような視点をもつ本書の価値は高いです。
近年他者論というレヴィナス由来の不思議な概念がまかり通るなか(その中になぜか日本
ではユダヤ人が入っていないようですが)戦後無視されてきた保守主義を考えてみる
契機にもなりうるでしょう。
戦後伝統として(そして今も)続いてきたマルクス主義アカデミズム(探求1958年3月号)
の誤りを正す意味でも有益です。
「理性的」とは、かくも困難なものか・・・ ★★★☆☆
 前半三分の二ぐらいまで、つまりホッブズまでは、それなりに文献を押さえ議論されていて参考になった。著者の言葉遣いに少々首を傾げたくなる部分も散見され、一定の見方からのものではあるが。しかし、ロック以降結語までの部分は、書き飛ばした観があり、どうもいただけない。ただし、気持はわからんでもない。
 そうは言っても、著者が「自らの主張を自分から疑ってみよう」(本書p.217)としているようには思えなかったのも事実だ。
 本書全体の論調からして、政治的にも知的にも、著者が、所詮、己も民衆(デーモス)の一人に過ぎない、という冷めた認識を持たれていないように見受けられるのは、知的(理性的?)読者をして著者の知的成熟度に一抹の不安を感じさせるに十分なものがあると愚考する。
 一言添えれば、古代ギリシアの民主政を見るに、デーモス不信に凝り固まった、貴族出自のプラトンやアリストテレスの評言だけを、歴史の当事者による証言のように珍重するのは、著者の史眼の浅さを露呈していて、いささか無残といわざるを得ない。
民主主義の盲信から抜けて ★★★★★
この本から、民主主義はいけないんだ!、と読み取ってしまうのは(筆者はそう思っているのかもしれないが)よくない読み方だろう。

民主主義には、大衆の理性が欠かさない。理性の方を忘れて民主主義を盲信すればとんでもないことになる。
民主主義という、全面信頼したくなるものにきちんと疑いを持つことが重要であろう。
そういう疑いの目が民主主義を正常な方向へと導くのである。


類書の「反「人権」宣言」や「「自由」とは何か」と同様に、一見「絶対的に正しい」ものとして見られがちな「民主主義」「人権」「自由」にも、きちんともう一つの側面があり、過信してはいけない、ちゃんと疑ってかかれ、そういう風に受け止めるべきだろう。「民主主義」「人権」「自由」への全面否定ではなく。

普段からそうした「絶対的に正しい」ものを疑っておく必要はあると思う。そういうきっかけに本書はいいのではないだろうか。