近代を準備した「技術」
★★★★★
中世の1000年間に文字リテラシーが浸透して普及した経緯を、いろんなトピックを挙げて追跡しています。
オングの著作と比べると、本書はテーマの焦点がちょっと異なっている感じ。リテラルなコミュニケーションが伸
張してくると、オーラルなコミュニケーションが優勢だった場合に比べて、人の世界への構え方がどんな具合に
変化してくるかっていうところよりも、ずっと文字リテラシーの浸透と普及(と、その過程での文字リテラシーの
ラテン語から俗語への浸潤)に力点が置かれている感じ。
率直に言えば、本書では、「声」については「文字」ほどは、はっきりとしたテーマを形作ってはいないようです。
文献として残されている資料からどこまで当時の生の声を読み取れるか、という試みも、やや文献資料、
従って文字に引きずられている印象。
しかし、オーラルからリテラルへという構え方の変化よりは、商人に要請されるスキルについてのトピックなどに
見られるように、本書では、いっそう社会的に普及する「技術」の問題が明確になっているとも。
(なんか自分の関心に引きつけてしまって恐縮です)
そんなわけで、本書と併せて読みたいものとしては、本書も全面的に参照しているW.オング『声の文化と
文字の文化』をお薦めする誘惑には逆らいきれないですが(私も再読決定中)、それでも、個人的には
山本義隆『十六世紀文化革命(1,2)』との併読をお薦めしたいところ。
啓蒙や社会契約や、それから宗教改革によって涵養された内面的実践やなんかが近代を準備したんだ
という主張は、産業革命と流通革命の物質的に圧倒的な自明性に対抗するところに意味があったりした
わけですが(だけじゃないですが)、しかしながら、近代を準備したのは、薄く広く浸透した「技術」であることは、
やはり動かしがたいように思ったり思わなかったり。