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定本 柄谷行人集〈3〉トランスクリティーク―カントとマルクス

価格: ¥3,675
カテゴリ: 単行本
ブランド: 岩波書店
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やはりカントも読んでないと ★★★★★
まあマルクス読んでて柄谷氏の本を読む人も多いだろう。その深い読み込みには感心させられる。
だがマルクスとマルクス主義、マルクスの可能性を別個に考えて読む必要があるように感じた。
その上でなら非常に興味深かった。
ただしかし、これは反省を込めてだがやっぱりカントも読まなきゃ駄目だろうなとも思った。
もちろん柄谷氏のように読書することは普通ではないだろう。
でも基本としてカントは読めるだろうなと思った。
私がカントを読まないのは面倒くさいからであり、怠惰であるからだが、
カントからマルクスを読む試みなのだから、カントも読んでみないと駄目だろうなと思った。
そういう意味で時間があったら再チャレンジしてみたいが、哲学より経済学に興味のある私には読む本が多すぎ
なかなか時間が作れない。
だが事情の許す人はやはりカントとマルクスの両方を読んでこの本を読書することをおすすめする。
混乱は回避できない。というか、“そこ”に混乱が起こるからこそのトランスクリティーク。 ★★★★★
第一部・第3章において柄谷は、“単独性”と“個別性”(“普遍性−単独性”と“一般性−個別性”)の間に、執拗に区別をつけようとしている。が、本人も「確かにヘーゲルが言うように、単独性は言語によっては表現されない」(P169)であるとか「単に言葉の定義を変えることで、問題が解決されるわけではない」(P170)と述べている通り、柄谷自身の記述においても、その言わんとしていることが表現できているわけではない。表現できているわけでもないのに、そのように記述してしまう理由が那辺にあるのかというと、「無用な混乱だけは避けられる」(P170)かららしい。しかし、本気で「無用な混乱」を避けようと思うのならば、表現することのできない、そのような“単独性”については、口をつぐんでしまうほうが、よっぽど「無用な混乱」を避けられるように、私には思われる。柄谷(あるいは、柄谷の言うカント)みたいに、表現できないはずのことを、あたかも、表現できてしまっているかのように見せかける記述の仕方に対しては、ヘーゲルのごとく、「そんなことは言えない」と、「無用な混乱」を避けるための“実践的な観点”からは言いたくなるのではなかろうか。そして、“トランスクリティーク”というのは、そのようなカント(あるいは柄谷)の記述が引き起こす混乱を、ヘーゲル的に「そんなことは言えない」と書くことによって静めることの“間”(あるいは“視差”)、また逆に、ヘーゲル的に「そんなことは言えない」などとある種の事態についてしらを切るの対して、カント(あるいは柄谷)的に、「そこにある“単独性”と“個別性”の違いに注意せよ!」と再び三度混乱を引き起こすことの“間”(あるいは“視差”)の元に生まれる営みなのではないか。「トランスクリティーク」という書物のみでは“トランス”も“視差”も現れない(もちろん、それが「トランスクリティーク」という書物の価値を下げるわけではない。むしろ、後続の「ヘーゲル」的な柄谷読解が、「トランスクリティーク」の正しさを明かし立てさえするだろう)
読む能力が問われる柄谷「トランスクリティーク」 ★★★★★
古本屋A (Japan)のコメントに「批判的な評価については言えば、1)カント解釈の無理、2)資本主義の対抗原理としてNAMを主張してしまう発想の貧弱、だと思う。マルクスに関する論考は、異論もあるとは思うが、これは独自の視点での優れた「改釈」という前向きの評価で良いと思う。」とあるが、柄谷の本に「改釈」以外を求めていること自体がすでに柄谷への「読みの能力」の限界を自ら示しているにすぎない。
本書だけでなく、柄谷の著書は、或は中上健次にも言えるが、論理的整合性などどうでも良く、むしろ論理的整合性という呪縛をすり抜けつつ「文」を記すかにしか「存在」は無い。
独創性のある本だがもったいない ★★★☆☆
批判的な評価については言えば、1)カント解釈の無理、2)資本主義の対抗原理としてNAMを主張してしまう発想の貧弱、だと思う。マルクスに関する論考は、異論もあるとは思うが、これは独自の視点での優れた「改釈」という前向きの評価で良いと思う。本書のなかで大事にしたい主張があるとすれば「異質性の感覚」を主張している点と思う。だが「他者」という不用意で飽きられやすい言葉で表現されて損をしていると思う。テープレコーダーで自分の声を聞いた瞬間、ぎょっとなる異質感とか、暗闇に部屋で、見当をつけて欲しい物を取ろうと触った時、予期せぬものに触ってびっくりする、あの、ほんの一瞬の「感覚」が、本書の鍵概念だと思う。「他者」「ゲームの外」という概念に遭遇する時が、危機でもあり機会でもあるのだが、この感覚を「哲学」がちゃんと導入してきたかと言えば、そうではなかったはずだ。結局、「異質性」をそれとして受け入れるためには、「単独性」の観念を中心に思想を組みなおす必要があるのではないか、という指摘であれば、大いに同感だし、キルケゴールが意識的に展開したのではなかったか。この重要な指摘が「他者」という不用意な言葉によって、放り捨てられそうだ。もうひとつ著者の良くない点は、「排除と色分け」好きなところだと思う。自分の考えに合っているのは誰々だ、そうでない奴は誰々だ、と言ったことを、著者は長年、四六時中書物の中で展開しており、傍から見ると、内ゲバ的な発言も多い。次元が低いと思う。人の書物など引き合いに出さず、自分の言いたいことを自分の言葉で書けば、もっと短く明快に言える筈だ。
希望・未来・脱貨幣 ★★★★★
本書は著者自身が初めて本を書いたと言わせしめる代表作であり、
必読書である。著者はこう呼ぶのを嫌うだろうが、ここに「希望」が
存在する。
その為に著者はカントとマルクスの批判=吟味に沿って、
丁寧にキャピタリズム/市民社会=ステイト=ネーションの
三位一体からの脱却を見て行く。
マルクスを読み込み過ぎているきらいはあるものの、
その理論的支柱は揺るぎ無い。
マルクスの言葉通り、未来について語る者は反動的である、
と言う実践に基づいて、安易な未来像は提示されず、
最終章でただそのヒントのみが語られてゆく。
最後にジジェクの寸評をもってこのレヴューを終わろう。
《この恐るべき『トランスクリティーク』は、(中略)・・・
現代の資本の帝国への対抗哲学的・政治的基礎を鋳直す最も独創的な
試みの一つであり、(中略)・・・資本主義への「文化的」抵抗という
袋小路を打ち破りマルクスの経済学批判のアクチュアリティを
改めて主張しようとする全ての人にとって、必読書である。》

晩年のドゥルーズも「私は完全にマルクス主義者です」と言っていた。