革命理論?
★★☆☆☆
国家とは暴力への権利の源泉である。
暴力への権利は暴力の実践を通じてもたらされた。
富への権利は暴力によって国家のもとにうちたてられた。
暴力への権利と富への権利が労働の成果を吸い上げているのが
資本主義社会だ。
いやはや、これだけ乱暴に単純化された話をはじめて
目にしました。
ここから、暴力の実践によって、暴力への権利と富への権利を
奪い取れというアジテーションまでは、後一歩ですね。
話としては非常に面白い。しかし、実証性はない
★★★☆☆
この本は、国家に対する非常にどぎつい(刺激的な、といってもいい)「一つの見方」を提供してくれる本として読むべきである。
その「見方」とは、「国家は暴力を独占してそれを好き勝手に使用できる。そして国民が稼いだカネを上前としてはねる。要するにヤクザと同じ。違いは、国家が最強の暴力のため、自分に都合のいいように「法」が作れることだけ」というものである。
「国家はヤクザと同じ」「働いた金を奪う」「法によって暴力を正当化し独占する」「アウトローも国家の枠に組み込まれる」など、強烈な視点が並ぶ。
こういう「とても極端な見方」は読んでいる分には楽しいし、国家の「一面」は捉えているともいえるだろう。
しかし、こういう「見方」はあくまでも「見方」であって、それが証明されたりしたわけではなく、あくまでも仮説である。
しかも、おそらくどんな事態に対しても筆者の論は当てはめようがあるので、ポパーに言わせれば「反証可能性がない」、つまり、「理論としては間違っている」ということだ。
実証的に見るならば、筆者の論は穴だらけである。
例えば、筆者は国家とヤクザをその合法性のみを質的差異とし、その他の差異(例えば国民による信任)を「量的差異に過ぎない」として却下する。
しかし、量的差異といってしまえば、例えば赤と青の違いは光の波長の長さ(量的差異)である。量的差異だからといって軽視してよいわけではない。
また、国家の活動や性質には必ず「プラスの面」と「マイナスの面」があるものだが、筆者はこのうち「プラスの面」は「副産物」として軽視し、「マイナスの面」を「真の目的」として重要視する。
しかし、こうした論は結局、陰謀論の域を出ない。
筆者は、国家に関する道徳的判断、つまりいい・悪いを極力排除し、そうした道徳的主張はすべて無根拠だとして批判するようだが、そもそも筆者が国家についての事実(である)を論じているのだから、それと国家についての道徳的判断(べき)が出てくるはずがない。だから筆者が自分の論をもとに、国家についての道徳的判断を批判するのは的外れだと思われる。
要するに、この本は、フロイトの「自我・超自我・エス」やマルクス=ヘーゲルの「進歩史観」と同じで、実証的でない壮大な物語の類なのである。
そして、そのように読めば非常に面白い。しかし、学術的な本として読むと非常にダメな本である。
だから、この本から、「だから国家は〜だ/すべきだ」などとは導けない。
ということで、物語として星5つ、学術書として星1つ、平均星3つ。
国家については、坂本多加雄「国家学のすすめ」を読んでみることを薦める。
カネの手に入れ方
★★★★☆
本書の主題は古く、なにを今さらと思わせなくもないが、著者も云うとおり哲学者が社会の個別の現象に拘泥しすぎる傾向にある現在、大上段からの語り口に新鮮さを感じる。ただ、繰り返し表現がややくどい気もするが。
個人的には、カネの手に入れ方は4種類ある(1.自分で働く、2.人に働かせて上前をはねる、3.人から貰う、4.人から奪う)というのが「!」でしたね。(←著者の表現とは若干異なりますが。)
力のあるところに金は集まり、金があれば力を持てる
★★★★★
国家は権力を振りかざし、納税として民衆から金を吸い上げる。もし脱税などしてこれに背くと制裁が加えられる。それは「言うことをきかなければ殺す」という脅しによって他人から金を奪うことの延長線上にある考えだ。そもそも金を集めるのはそれ自身交換の価値があるからであり、それによって金は力を持つ。これにより、雇用者が非雇用者を雇い、その上前をはねるという資本の活動が生まれるわけだが、ここでも雇用者は非雇用者を働かせるという上からの圧力によって金を吸い上げていると言える。本書はこのように金を吸い上げるものとしてある力に焦点をあて、あらゆる力を制する国家の物理的な権力、すなわち暴力について考察する。特に面白いのが暴力の正当性についての論理である。暴力が合法的であるか否かということが道徳的にそれが正しいか否かの根拠になるという論理である。普段我々はその逆の論理で暴力をみがちだ。例えば「死刑」は刑せられるものが罪人だからといっても人を殺すことに変わりはなく、国家による殺人である。しかしこれは正しいものとして一般的に我々は認識している。しかし、これが国家でなく、人間が人間を殺す殺人であればそれは正しくないものとして我々は認識するだろう。この正しい、正しくないという価値判断を基に相互同意的に合法的な法が生まれた考えるのは一般的な社会契約論的ロジックであるが、それは暴力の見方として根本的に逆であると説く。そこからそもそもの社会契約論のとらえ方をホッブズに遡って掘り起こしていく過程はコペルニクス的転回を見るようで大いに啓蒙された。最後には国家の力から資本主義は派生してきたというマルクスの考えとは逆の考えを提唱するが、ここまで読んでいればそれもたいへん納得できるものであった。
税金はテキ屋のみかじめ料である
★★★★☆
国家論の俊秀による新しい論考。
カネと暴力の元締め、資本と国家を平易な言葉で考究したまっとうな思考の書だ。税金と暴力団のみかじめ料が、その本質において同じものだという、ある意味「当たり前」のことを明快に説いている。しかし、「当たり前」といっても、源泉徴収で分捕られ、年末調整で喜んでいる賃金労働者のどれだけがこのことに日々自覚的なのかを少し考えてみれば、苦渋の一つも浮かべてみるべきだ。佐藤優が『ナショナリズムという迷宮』で語っているように、「当たり前」として素通りしている対象(思想)について批判的に検分することが、批判なのだ。
我々賃金労働者がものを考えようとするとき、萱野のこの素朴でラディカルな論考からスタートしなければならない。現代思想なんて言ってみても、またトランスクリティックなんて言葉遊びをしてみても、それだけではただのディレッタントになるしかない。
折りしも、平成19年度の税制改正案が自民党と財務省から提出された。これから国会で論議されることになるが、中小企業経営者や賃金労働者は一心を込めてその行方を注視すべきだ。格差是正とか再チャレンジとかの言葉の裏を、矯めつ眇めつ。