フーコーの全貌を探る
★★★★☆
著者の前作のフーコー論以後、刊行された思考集成、講義集成等をふまえて、フーコーの全貌を押さえ、近代社会(史観)の相対化を試みる。
国家と権力諸関係の間に、統治性のテクノロジーが置かれ、そこに(近代)主体の形成とそこから脱出する可能性としての自己テクノロジーが置かれる。
講義集成の流れで言えば、はじめの五年間はディシプリン権力、それから「社会防衛」以後戦争論を通じた統治性の技術、それが「生政治の誕生」で現在に統治性が位置付けとめられ、以後はキリスト教から古代ギリシャの主体性の自己テクノロジーのながれになると整理される。
近代社会(史観)の相対化、その脱出口としての著者オリジナルの文化資本/場所/ホスピタリティ/非自己テクノロジーは終章に全530p分の20pほどのっているが、他に読み方のテクニック的には仏英辞典をともなった仏語と英訳のつきあわせ(知の考古学)邦訳のつきあわせなど、こまかいところものっている。
言説論としては、「知の考古学」が詳しいが、「言葉と物」については、本にならなかった別原稿として割愛されている。