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日本政治思想史研究

価格: ¥3,780
カテゴリ: 単行本
ブランド: 東京大学出版会
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丸山の政治的日本学の形成 ★★★★☆
「日本政治思想史研究」は、彼の「忠誠と反逆」同様、大まかのテーマは、日本人の、心の根底に横たわる哲学と倫理、行動と情緒の問題を、先鋭的に分析し且つ総合する事にある。丸山が、「日本政治思想史」で、展開したのは、江戸期の統治思想の原型を求めた、朱子学と国学の相克の経緯、そして、日本的な、統治思想の底辺にある儒教的世界観、朱子学的価値観、等に付いての批判的解剖である。朱子学に付いては、山鹿素行・藤原惺窩、また荻生徂徠について、熊沢蕃山について、石田梅岩の心学・伊藤仁斎の古義学について、そして、国学については、本居宣長、山崎闇斎学派などが、その分析のターゲットであり、再解釈の主旨であった。そこでは、徳川期の統治ドクトリンの背骨になった朱子学と、アンチテーゼとしての国学の、社会観・自然観・人間観を、徹底的に再検討する。

ただ、ここで、丸山は、政治思想の根底にある、日本人の意識下に潜んでいる心性の特質、音楽好きであった丸山の表現を使えば、その基底重音や、古代日本の縄文的自然神道のテーゼについては言及していない。投稿者が特に興味があるのは、鎌倉中期から室町後期に掛けての、日本国の政治思想と並立した、仏教思想のメンタリティーであり、それこそが、江戸期の、単に皮相的な政治学の根底に、仮面を被って横たわっている、パトスではなかろうかと想像する。今以って日本人は、源信の「往生要集」や景戒の「日本国現報善悪霊異記」などの説話文学の中にある、地獄観、世界観、因果応報観、が、本来の信心とは異なる次元で、無意識としての基底に、厳然として息づいている事を疑う者はなかろう。

歴史を、統治思想の流れとして見るには、漢学、特に儒教の影響が無視できないが、古代中国には、そのほか幾多の思想が、諸子百家の哲学として記録に残る。そこには、今の新しい世界観、人間観と思われている思想が、すでに、その原型として述べられている事を知るであろう。「太陽の下に新しいもの無し」の諺は、ここでも正しい道理として記銘されねばならない。徳川幕府の瓦解から、昭和の二十年までの日本国に起こった事件は、日本人の思想と行動の極端に特異な時期として、また、日本と言う国家の一種の変転の精神史として、考究・検討に値する。政治史は、ホッブスやマキャベリーを俟つまでも無く、一つの社会思想史であり、人間と言うケモノの歴史であろう。そして、その徹底的な究明は、未だ、十分に理解され、昇華されたとは云い難いものがある。我々の、意思決定の根幹にある規範とは何か?、古代から我々は、どんな世界観を持ちつつ歴史を形成してきたか?事実を克明に検証し、その根底には、どの様な思惑が働き、どの様な共有規範が、形成されて行ったのか?未来を占う意味で、政治思想史は面白い。それは、突き詰めれば人間論であり、取りも直さず、思想家本来の、偽らざる人間を露わにするから。
日本のアカデミズムに始まった難解さを堪能する ★☆☆☆☆
 まず、この本について確実に言えるのは、その難解さです。

 どうしてここまで難解なのかと考えさせられます。

 まず、使用されている用語の意味がいまいち理解できないこと。

 それと文章の流れが不自然であること。

 この丸山的難解さは、その後のアカデミックの標準となり、難解で象牙の塔的文章が大学に氾濫し、たいてい、意味なき大学教授がこうした難解な文章と無味乾燥な本を出版し続けることになります。

 どうしてここまで難解なのか、難解であることが流行したのかと。

 おそらく、西洋の輸入学問が大半だった日本はこうした難解であることをありがたがったのでしょう。

 日本政治思想史の金字塔といわれる本書ですが、その難解さからいまいち理解できません。

 読んでいて、西洋の政治思想史及び社会学から日本の徳川期の思想を理解しようとしているのだろうとは思うのですが、正直、私にはあまりよくわかりませんでした。

 この本の内容が、重要であるのなら、解説本を読んだ方が早道だと思います。

とにかくこの本だけは、先入観や世評を忘れて読んでみてください。 ★★★★★
1章は、若き著者の対象に一直線に向かう精悍さと真摯さ、文献に沈潜しながら論を展開する密度、明快な論理、勢いだけに委ねない細部への配慮の行届いた理性、何をとっても立派の一言で、著者の最初にして最高の論考と思う。程朱の学にある自然と規範の連続性が、素行、仁斎を経て徂徠のなかで分解し、敢えて言えば人間社会の問題を人間主体の問題として捉えなおしていく過程が明快に描かれる。抽象的な思考の骨だけにはしないで、豊かに各思想に語らせながら、その本質を描き出す。そして、悧巧な奴は、何時の時代も馬鹿げたことは言わないものだと納得させるだけのポイントを衝いた引用が楽しい。論述は、徂徠がピークであって、博覧強記、解釈の卓抜、現実への飽くことのない追求と提言、どこか飄々とした陽性でユーモラスな人柄、まさにオールラウンドな大思想家の風貌を余すところなく描いている。国学への言及については、徂徠に比して精彩は欠くが、その非政治性が却って強固な政治的な影響力を示すという指摘は面白い。宣長の何層にも練り上げられた「自然」の観念は、老子思想の脆弱さを脱却しているという指摘も興味深く、小林秀雄も後年言うとおり、徂徠〜宣長は相対立するようで、実は同じことを語っていることにも気付かされる。2章以降も興味深く、時に、1章の良き参考書にもなるが、宣長以降の思想の展開をたとえ陳腐であっても追わねば成らない、研究書のつまらなさもある。また、1章の論考をやや後知恵的に注釈、解釈したところがあり、それが、却って1章の再現不能な見事さに水を注しかねない。またこの注釈的論述のため、1章ではそれなりに理解できそうな新鮮な着想に思えた「聖人」の解釈が、却って、徂徠思想の現実性を損なうかのような、つまり、結局は無理な体系だったかと落胆させる方向へ収斂していて、可能性が閉ざされた気もする。「あとがき」「英文への序文」も重要な文献だが、これも後知恵的に、本書の方法意識を強調しているきらいがある。無論、嘘ではないが、本論、特に1章を読めば、むしろ方法に拘泥しないで対象に向かっていく良さがあると思う。また、「英文への序文」には、徂徠を頂点とした江戸思想に、恰も近代の萌芽を読みとろうとしたとの論述もあるが、本論は、実際にはそれほど作為的ではないと思う。西欧思想、とくにヘーゲル、ウェーバー、マンハイム、マルクスからの影響も然ることながら、幅広くドイツ思想を渉猟した奥深い薀蓄を示していて、「西欧思想学者」以上に良く分かっている気さえする。しかし、西欧の方法を安直に日本思想に適用していないところがまた良い。が、近代へ手繰り寄せるかのようなスタンスでの思想史は、今となれば、やむを得ないが、やや古く、著者自信も「英文への序文」でその限界は認めている。けれど、商業資本の発展による封建制度の崩壊、しかし商業資本の封建制への寄生性という限界の中で、模索された封建秩序の回復思想が却って封建制の精神基盤を崩壊させ、近代化へと進んでいく過程としてみようとする全編のモチーフは、今でも魅力的である。本書は、戦後日本の思想本の最高傑作であることには変わりがなく、数多ある左翼思想家からの批判論評は、まず、本書に関しては、ほぼ言い掛かりの類で、あらぬ人格批判まで行うなど、逆に品位の差さえ感じたものだ。