正念=「タタター(ありのまま)を知ること(如実知真=真如)」こそ、釈尊の真意
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著者は、“『転法輪経』で釈尊が説いたことの真意について(私が)到達した結論は、正統的な解釈とされている説からは大きく懸け離れている、ということを前もって付け加えておかなければなりません。(p.41)”と述べているが、旧来の解釈よりも釈尊の真意を把握できた、と私は思う。
釈尊は、なぜ苦聖諦を“これがdukkha(苦)に関する高貴な(聖)真理(諦)である。(p.74)”と述べたのか?と著者は自問し、従来の解釈の問題点を指摘した上で、「執着を無くしなさい、そうすればもう苦しまなくても済むようになる。」ということが苦聖諦の真意ではなかった(p.83)、と結論する。
その上で、著者は釈尊の真意を次のように類推する。「釈尊の教えは何よりもまず、私たちが苦しみに対して抱いている恥辱感を攻撃することから始まっている。dukkha、つまり不完全さ、苦しみはリアルなもの(諦)であり、それがあることを恥だと感じる必要は少しもない。事実、避けることのできない苦しみに直面することはたいへん高貴なこと(聖)である。高貴な人(聖者)は人生における逆境のリアリティをありのままに受け入れる。」(p.89)
私たちの身上に起きる苦悩から逃げることなく、苦悩をありのままに受け入れるとどうなるか? それは、大ヒットしたTVドラマ『Jin -仁-』で南方仁が述べる名言「神は乗り越えられる試練しか与えない」だと思う。それは、苦悩は乗り越えられる試練だと考えることで、自分がこれから何をするのが最善かを確信できる勇気を持てるからであろう。