エンターテイメントと孤高の表現者の2面性
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「ライブハウス」を批判したことから、インディーズからも一時リリースできなくなってしまったといういわくつきのアルバム。おちょくりと、日本の未来に対しての真剣思いがつたわってくる「目覚まし時計は歌う」。身の危険を感じて警察に行ったのに何もしてくれなかったから殺されてしまったと歌う「警察に行ったのに」♪おまえは出て行った。仕事はなくなった。ストレスもなくなった、快適な暮らし♪と歌う遊び心とアイロニーがこめられている「快適な暮らし」
「ライブハウス」清志郎って、黙っていられない性分なんでしょうね、考えなしに思ったままの真情を歌詞にして歌う。後先のことなど考えない。本来、アーティスト(清志郎はバンドマン)っていうのは、誰も歌っていない新鮮な歌を歌うものだと思うのですが、まさにフォークロックトリオとしてデビューしてから、その姿勢は一貫として変わる事がなかったというのはすごいことだと思います。
そして孤高な表現者としての内面の歌った「誰も知らない」♪みんなテレビが歌う歌しか知らない♪という歌詞がありますが、それだけでなく清志郎のライブに来るお客さんも自分の歌を清志郎が思ってるとおりにうけとってはもらえないという孤独感は、実は、清志郎だけが感じている事だけじゃなく、表現者はみんなそのジレンマを感じていると思います。逆にいえば、他者が書いた歌を聴いて、それを聴いた人は、聴いた人の数だけ心に描いたイメージがあるのが健全なことだから。
たぶん清志郎は、もっと大勢の人に自分の歌が伝わっていくことを強く望んでいたと思います。たとえば、日本中の老若男女すべての人に自分の歌が伝わるようになりたかったのだと思います。しかしその願いは叶いませんでした。この「誰も知らない」で、自分の歌を知らないことはいいことなのかもしれないと歌い、その後に♪僕の歌には力がありすぎるから♪の歌詞には、清志郎の燃えるような情熱とそして相反するような「あきらめ」のような気持ちが集約されているような「悔しさ」を感じました。