ポスト資本主義社会のパースペクティブ
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■近代以降、「知識」を工程や仕事に適用することで、生産性が爆発的に向上し、そのことにより社会の構造が変化してきた。資本主義の次に来るのは、「知識(が中心になる)社会」であり、現代はすでにポスト資本主義社会として、その転換期に入っている。「知識社会」においては、社会の在り方やや政治体制も現在と違ったものとなり、おのずと我々の生き方も変化が必要となる。本書は来るべき「知識社会」到来に向けてのパースペクティブと、現在取り組むべき課題をわれわれに提示する。
■マネジメントの神様と呼ばれるドラッカーは、自らのことを「社会生態学者」と呼ぶ。人間社会に対する幅広い知識と分析力をもって書かれた本書は、歴史や社会に対する新たな視点を提供し、ドラッカーがなぜ自らそのように名乗ったのかを、読者に納得させるに十分な根拠を与えている。
■本書が17年前(1993年)に書かれたということに驚きを隠せない。サービス労働の外部委託化、ばらまき国家の問題、グローバリズムと地域主義、テロの問題、非営利組織の必要性、企業の社会的責任など、ここに書かれていることは、昨今主要な問題として語られていることばかりだ。
■本書は『社会』、『政治』、『知識』のV部からなっており、いずれも密接に関連しあって来るべき時代のパースペクティブを提示している。上記3章の順番は、予測の容易性の順位に従ったとのことである。
■確かに、『社会』においては、企業を中心に「生産性」の追求から、「責任型組織」化など、「ポスト資本主義社会」への移行が進みつつある。一方、『政治』の世界では、現実的にグローバル化や地域主義(EUの実現)などが進んでいるが、「巨大国家(メガステイト)」は依然存続し、いたるところで機能不全を呈している。租税国家、ばらまき国家、福祉国家、冷戦国家(軍事費に多くの予算を割く)、経済の主人たる国家。さまざまな機能を総合的に持ち合わせた国家において、いまだ「市民性」や“本当の”愛国心は培われていない。そして、『知識』についての課題は、もっとも重要でありながら、まだそれらへの問いを発することしかできないという。歴史の次の段階とされる「知識社会」の到来に向けて、「知識の経済学」を確立させ、「教育ある人間」による「人間が中心的な存在となる社会」を実現させることができるのだろうか?これら来るべき社会への課題を並べて、ドラッカーは読者に行動を呼びかけている。
災い転じて福となる
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本書が出た1993年では、ポスト資本主義社会論考は未来でしたが、現在では実態が見えてきて、いわば未来から過去を読むのは奇妙な体験です。
今日の世界不況の引き金は倫理観を失った米国の強欲資本主義と見做され始めています。米国への憧憬や敬意は薄れかけています。本書は、それらがまだ輝いていた頃に書かれています。
ドラッガーさんの理想社会は、アテネ、ローマの市民社会のようです。たしかにローマは文化の感化力があったようです。蛮族の血を引く者さえ皇帝につき、優れた資質ゆえに賢帝となりました(トラヤヌス、ハドリアヌス(ベルベル人)、ディオクレティアヌス(スラブ人))。
驚いたのは、米国成人の二人に一人は、非営利組織のボランティアとして週に3時間以上働いているという記述です。何が米国社会の変貌を招いたのでしょうか。仮説としては、ドル紙片を無限感覚で印刷し過ぎたことが根本原因かも知れません。
本書では、ポスト資本主義社会は知識およびそれを担う人が中心となるという予見は当たっています。ただし、ドラッガーさんは、良識を暗黙の前提としていたのと違ってきたということでしょう。
もっとも感銘を受けたのは、ひとつの福祉政策です。第二次大戦直後のアメリカの復員兵援護法。米国のすべての復員兵に対して、大学で高等教育を受ける道を与えたと。
今日の日本に照らし合わせると、派遣切りされた労働者が復員兵に対比されます。付加価値を生み出せる本物の教育を受ける道を与えれば、日本も「災い転じて福となる」であろうという素晴らしい示唆になっています。生かせれば、ドラッガーさんの遺産となると思います。
すげー〜
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まいった!どうしよう もいっかいよむかどうしよう
このひとてんさいだ
いま読み返しても洞察は古びていない
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平成20年のいま久しぶりに読み返してみましたが、
洞察は古びていません。先進国が労働者の楽園か
ら格差に苦しむに至る現状は必ずしもはっきりと
予見されていたとは言えないと思いますが、今から
見て明らかに違うのではないかと思える箇所は
見あたらなかったです。
歴史の境界という名の転換期
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断絶と変事の違いは何か。ドラッカーは明言する。「変事」が激しく目を引くのに対し、「断絶」は昨日と今日のきしみの蓄積であり、静かに進行する、そして、変事は地形を変えるが、それは地殻の変動という断絶によってもたらされる(『断絶の時代』、p.419、1983年版の序)。
本書はドラッカーが、企業、経済、政治、情報の世界の新しい潮流がつくり出しつつある世界を見つめたものである。『断絶の世界』が分析であり、描写であり、診断であったのに対し、本書は、行動への呼びかけである(p.8、日本語版への序文)。
新しい社会は、非社会主義社会であり、かつポスト資本主義社会である。主要な資源は知識であり、組織社会たらざるを得ない。これは、すでに起こっていることである、これがドラッカーの認識。なぜ、組織社会なのか。ドラッカーの組織観は、「共通の目的のために働く専門家からなる人間集団である」(p.97)。われわれがよく目にするのは、バーナードの協調関係の議論における組織定義である。組織論者の数ほど組織定義はある。
例によって、ドラッカーの主張と発言は多彩。その造詣の深さで、知識社会を組織の面からも切り込んでゆく。昨今の「成果主義」なぞを単に、雇用者としての論理まで持ち出した新聞の読者欄のような意見の同義語反復では、切り込むとは言わない。
問題意識は、3つある(p.99)。
1)組織は、いかなる役割を果たすか。なぜ必要か。
2)組織が、社会学、政治学、経済学によって無視されているのはなぜか。
3)そもそも、組織とは何か。それはいかに機能するか。
最後に、「今日、『知識論』を書こうとすることは、臆面がないわけではない。」「これから起こる最大の変化は、知識における変化」だ。「すなわち、知識の形態と内容、意味、責任、そして『教育ある人間』たることの意味の変化である」(p.359−360)と、としめくくる。