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ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))

価格: ¥4,102
カテゴリ: 単行本
ブランド: 水声社
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現代思想におけるポストモダン 「大きな物語の凋落」 ★★★★☆
ジャン・フランソワ・リオタール

「大きな物語の凋落」を提唱し、現代思想におけるポストモダンを拓いた人物である。

本書におけるメインテーマが「大きな物語の凋落」という概念。

社会の成員が共有する価値観や理念、イデオロギーなどがその支配力を失うというものだ。

よく宿敵といわれるハーバマスとの違いを少しだが考えてみよう。

ポストモダン:
「大きな物語」はなくなるけど、真理の不在を積極的に肯定して、その先の社会を考察してみよう。落としどころとなるシステムはあるのかもしれない。

討議理論:
何が正しいかどうかは、理性をもって討議して決めるべきだ。そのためには多くの人が参加できる討議の理論を整備しなくては。

と言うことが出来る。


また本書では、ポストモダンの社会モデルを考察することも、まだ漠然としているが試みられている。

当時の社会に即した例を挙げて、ポストモダンを分析している項があるのだが、

『知の欺瞞』曰く、間違った用法で数式や理系の専門用語が用いられている。

実際引用するに値するかアヤシイ場所があるので、本書の優秀な点は、「大きな物語の凋落」とその周辺理論だけと思った方がいい。

実は評者が論文に使おうと思っているイカス場所があるのだが、秘密ですm(_ _)m


たまにいらっしゃるのだが、なんでもかんでも『知の欺瞞』を振りかざし、対象の内容に関わらず攻撃する方がいる。

これは私見だが、(少しだけ自信有り

知の欺瞞で晒されたリオタールとボードリヤールに関して言えば、

インターネットもない時代に、高度情報化社会を説明しようとして知らない専門語句をアホな使い方をした。そしたらすごく批判された。

というのが簡単すぎますが、事の顛末な気がします。



はて、どこか直近で見た気がするのですが、

『知の欺瞞』を使いながらも、『知の欺瞞』で批判されたような意味のない語句の羅列や、不必要に難解な表現、といいますか明らかなデタラメ、で書かれているレヴューが目に入りました。

たまにいるんですよね、アラン・ソーカルの思惑を無視し、『知の欺瞞』をその適用範囲を越えて乱用する人が。

『知の欺瞞』の功績と、ほんの少しだけの問題に関しては、評者の『知の欺瞞』のレヴューをご覧くださいませm(_ _)m

理性と政治の否定−ネオリベラリズムの先駆 ★☆☆☆☆
本書の目論見は、「大きな物語の否定」「理性の否定と政治の美学化」「言説による支配」である。本書では物理学・数学がその理論的根拠として展開されているが、それがいかにいいかげんかは、アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン の『「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用』岩波書店で暴露されている。だから理論としてはどうでもいいのだが、その「社会的効用」は看過できない。というのも、「理性の否定と政治の美学化」とは、ナチズムの専売特許だったからだ。本書ではハーバマスが批判の遡上にあげられている。かれの近代的理性への信頼が許し難いのだろう。確かに、ハーバマスの「カント的理性」は、のちのユーゴ空爆への支持にみられるような「西欧的理性」の問題点をあらわにした。しかし、リオタールのモダニティ批判は、こうしたオリエンタリズムや帝国主義批判などにもとづく批判ではなく、歴史、討議の放棄、政治の美学化、そして美的な言説の勝利、にもとづいている。ナチズムを政治的理性、イコール、全体主義思想の到達点ととらえるのは、アドルノの「否定の弁証法」の非歴史的・反政治的歪曲である。というのも、アドルノは近代的理性とナチズムを「イコール」とはしておらず、どこに賭金をもつのか、を問題にしているからだ。
 そしてこうした思想がポストフォーディズムと手に手を携えているということが、その社会的効用なのである。本書のような、理性への「ラディカルな」反抗、という主張は、消費主義と結託し、結局のところ新自由主義という(藤田省三がいう)「全体主義」にゆきつくのである。こうしたポストモダンは現存支配へのラディカルな対抗という外観をもちつつも、実は移行し台頭する新しい支配に対しては、補完的な存在であった。つまるところ「狼の皮をかぶった羊」なのである。