西岡は、言葉や文字に頼らず、仕事を通して培った「手の記憶」を伝える古来よりの「徒弟制度」のなかで小川を育てていく。すべての指示が「簡潔だが、遠回し」で、「とにかく研ぎをやれ」という独得の修業だ。しかし、小川は夜も寝ないでひたすら道具を研ぎ続け、わずか1年で西岡に匹敵するほどの腕前になったという。徒弟制度には「個人対個人が持つよさがあり、木の癖を見抜き、それを生かす飛鳥の工人の心構えと同じものが弟子の教育にはたらいています」と小川は語る。2人の濃密な師弟関係のなかには、個々人の個性を見分け、じっくりと育てていくという教育の本来の姿が映し出されているのだ。
一方で、西岡のように寺社以外の仕事をいっさい請け負わないまま宮大工を続けていくことは困難と判断した小川は、「食える宮大工」を目指して新たな道を模索しはじめる。西岡の技と知恵を継承した唯一の弟子としての責任と、建材である檜(ひのき)や寺社建築の減少といった時代との戦いを双肩に抱えた小川の出した答えが、工人集団「鵤工舎(いかるがこうしゃ)」の設立だ。小川のもとに集った若者たちが、いかにして伝統の技を習得していったかは、彼ら19人へのインタビューで構成される「人」の篇で明らかとなる。(中島正敏)