しかし、上原彩子は違った。幼い頃からモスクワ音楽院のゴルノスタエヴァ教授につき、ロシア音楽、特にチャイコフスキーとともに育った上原にとって、このアルバムの選曲は必然とも言えるものであった。ここには、オペラや交響曲、バレエ音楽の大作曲家チャイコフスキーが、喧騒からひとり離れてピアノに向かったときの、詩情と親密感あふれる音楽が詰め込まれている。前半は小品集。控えめで目立たず、素朴に語りかける、心優しい音楽ばかりだ。「ノクターン ヘ長調」のしみじみとした静寂感、「ノクターン 嬰ハ短調」の涙を誘う感傷など、どれも心の宝物にでもしておきたい逸品。前半最後の「くるみ割り人形」からの1曲も、小さい作品ながらスケールの大きさと熱いロマンティシズムを感じさせる。
後半は名作・第4交響曲や「白鳥の湖」などを次々生み出していった充実期にあたる1878年に作曲された「グランド・ソナタ」。従来ほとんど扱われてこなかったこの大作を、上原はみずみずしい感動で再現している。この巨大な4楽章形式のソナタは、ごってりと盛り込まれた音楽的素材の充実度、スケールある構成感、内容の濃さから言って、ゆうに交響曲に匹敵する作品であろう。第4楽章は、華麗な管弦楽を聴く者だれしもの脳裏に彷彿(ほうふつ)とさせる。ここでは上原もきらびやかなテクニックを全開させている。今後がますます楽しみな、傑出した若い才能の出現である。(林田直樹)