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デカルト―「われ思う」のは誰か (シリーズ・哲学のエッセンス)

価格: ¥1,050
カテゴリ: 単行本
ブランド: 日本放送出版協会
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哲学の考え方を示す真面目な本だが。。。 ★★★☆☆
デカルトの「われ思う」の解説を通して、1冊の本にしてしまい、それが、また、哲学とはこういう風に考えるのだ、ということを示してくれる真面目で親切な本。哲学の豊富な知識とか「最先端」とか現代科学の知識をひけらかすこととは対極のものだ。思想とか文学とか批評といった似た領域とも、哲学の思考は断じて違うことを、静かに語っていると思った。そういう意味でよい本だ。「われ思う」の「思う」の確実性はともかく、それが「わたし」に簡単にくっついていることに対して、デカルト的懐疑への批判や疑問は古くからある。本書では、「わたし」自体が考える、思う、という機能そのものだ、としてこの手の疑問や批判を正当に回避し得たと思う。その確実性の基盤は、しかし、同時に「無限」「絶対者」を予感させる。そこから「他者」、そして、「愛」だの「祈り」だのにエスカレーション。ついに終幕を迎える本書の流れには、とてもじゃないがついて行けない昂揚感だ。デカルト的懐疑の意味と、「他者」への飛躍に就いては、個人的には好きではないが、柄谷行人が「探究」の中で、圧倒的に鮮やかに示していたと思う。無論本書のほうが、本当の哲学的な思索だとは思うが、終盤の流れはやはり踏み外しだと思う。第一、「無際限」は「有限」だが「無限」は違う、と言い出す辺りから、哲学的思惟の良くないところが如実に顔を出していると思う。「無限」とは「有限」に対する反対概念に過ぎず、その本性から言って、有限者が「無限」の内実的な概念を想定することは出来る筈もない。また、「無際限」が「無限」と同義のこともあるわけで、「有限」を「無際限」という場合は単なる形容詞に過ぎない。なのにこの手の話に拘泥し、「無限」から「他者」を経て「愛」とか言い出して終わるのは、結局本書全体のまじめな哲学的思考の良さを台無しにしてしまった気さえする。デカルト本来の直截な語り口とも違って現象学的な宿痾の語り口だった。
デカルト的思考 ★★★★★
私達は、どのように行為すべきかの決断を迫られる。
そのような事態に対処するために、人生を導く絶対に確かなものが
見出されるまでの間「暫定的」に「かりに」でも私を導いてくれる
指針が必要だとデカルトは考えたのである。

――人生の指針がない人の例え―― デカルト

森の中で途(みち)を見失った旅人の例を引いている。
このような状況に陥った時の最悪のふるまいは
あっちにちょっと行ってみては今度はこっちへ・・・・
と無定見にうろうろすることである。これでは
いつまでたっても同じところをぐるぐる回ってしまって
もはや森から抜け出ることができなくなってしまうかもしれない
かといって一箇所にじっとたちとどまっていても
状況はいっこうに改善しない
このとき私のとりうる唯一最善の方途は
ある特定の方向を見定めて
後はわき目もふらずひたすらその方向に
どこまでも歩き続けることだと彼は考える
そうすれば、いつかは森のはずれのどこかに必ず
行き着けるはずだからである。
かりにそこが自分の望む場所ではなかったとしても
森の中に閉じ込められて命を危険にさらすよりはるかによい
無限の他者に「触れられ」るデカルト ★★★★★
「我思うゆえに我あり」と、少し歪めて解されることの多いデカルトの根本命題を、著者は、「我思うcogito」ではなく「思うことcogitare」=存在=私と、正確に読み直す。そしてこの命題を、神の存在の二つの「アポステリオリな証明」と厳密に関連づける。思考の臨界に立つデカルトが、思考の外部あるいは他者である無限者に「触れられる」のが、神の存在証明の真の姿なのだ。本書は、『省察』のもっともテンションの高い部分に挑戦した強靭な思索に貫かれている。アンセルムスの神の定義は、「それ以上大いなるものが考えられないもの」という、比較級の否定であり、しかも「思考」が定義の中に入っている。スピノザの神の定義にも「考えられない」という「思考」が入っている。これだけでも、著者がデカルトの「我思う」ではなく「思うこと」に定位した卓見がしのばれよう。ところで、このような「哲学者の神」は、パスカルが「私はデカルトを許さない」と怒ったように、人格性を剥奪された最高度の抽象の産物に過ぎないのだろうか。哲学が宗教の最高の対立物であるという点では、まさにそうであり、そうでなければならない。だが著者は、「無限の他者」を語るデカルトの哲学的言説に、「弔い」「祈り」「愛」という人間の匂いを読み取る。評者はそれに深い共感を覚える。