聴衆が「自分のことを考えられなくなる」演奏者のアウラ・・・
★★★★★
『ドビュッシー〜想念のエクトプラズム』にも感銘を受けたが、本書も面白い!
リヒテル、ミケランジェリ、アルゲリッチ、フランソワ、著者の師匠ピエール・バルビゼ、ハイドシェックに就いてのピアニスト青柳いづみこが見たピアニスト論であり、印象記、エピソードに関するエッセイ、演奏論にもなっている。この多面性が著者の持ち味であり、批評家でもなく音楽学者でもないが、その素養をも十二分に併せ持った現役演奏者による音楽論と言えよう。これが面白くないわけがない。
やはり、リヒテル、ミケランジェリ、アルゲリッチの“超大物”3人の項が白眉だ。リヒテルとミケランジェリに就いては、評者はよいリスナーとは言えないが、本書を読んでみてもう一度虚心坦懐に聴きなおしてみようと思わせた。特にリヒテルだ。
リヒテルは不遇のヴェデルニコフの演奏を十二分に評価して、彼の不遇に心を痛めていたのだという。この一節に触れるだけでも、リヒテルを改めて聴きなおそうと思わせるではないか。
リヒテルとヴェデルニコフはともにネイガウス門下の俊秀と謳われていたが、周知の通り、リヒテルは本国ソ連でも西側でも“カリスマ”視されていた。
片やヴェデルニコフは西側での演奏を禁じられ、そのキャリアはほぼソ連圏内に限られていたようだ。ヴェデルニコフの経歴に就いては、いまやあまり店頭でも見かけなくなった彼のディスクのライナーノーツを読んで欲しい。まことにまことに痛ましく、ここにソ連下の藝術家(知識人)の“悲劇”の典型を見ることもできる。ショスタコーヴィチ、バフチン、メイエルホリド、トカチェフスキーなど“様々な悲劇”のなかのひとつとして。
青柳はあくまでそうした悲劇には直截的には触れていないが、他方リヒテルのほうにはどういう処世があったのだろうか? いくつか翻訳も出ている彼の伝記や評論、自伝的なインタビュー等も読みたくなった。
ミケランジェリに青柳は「イリュージョニスト」を冠しているが(引田天功?)、リヒテル同様にそのライブに接し得なかった者としては、次の一節に深い印象を受けた。やはりこうした雰囲気だったのか。
<「黒い衣装を身につけた彼が舞台の上にあらわれると、聴衆は一瞬戦慄する」
三千人の聴衆が、一瞬にして支配されてしまう。自分のことを考えられなくなる。>(P52)
「自分のことを考えられなくなる」は見事な表現だと思う。リヒテル同様にミケランジェリも神格化されているが、評者にはよくわからない。ともあれ、聴衆を一瞬にして惹き付ける存在感には超絶的なものがあったのだろう。
そういうピアニストや演奏家はいまや死滅してしまったのではないだろうか?
青柳が紹介しているライブ盤を聴きたくなってくる。
アルゲリッチの項では、かの天才もいろんな苦労をしているのだなあということが書いてあって、極めて興味深い。ここで青柳はグールドとは正反対の演奏者の苦悩を描いているのだ。
全体的には細部にもう少し突っ込んで書いて欲しいところもあったが、大いに読ませるので思い切って星5つ献上したい。