この中で、もっとも華やかで「光」輝くのは「絵合」。たぶん、全帖の中でも「紅葉賀」と「絵合」が光の絶頂を記した双璧だろう。前者は青年としての、後者は大臣(おどど)としての、「美しくある光の君」の瞬間をとらえたものであると思う。
まず、「蓬生(よもぎう)」。末摘花の君がただただ十年、光の君がお渡りになるのを待ち続けた窮乏と、乳母子「侍従」の恋ゆえの、姫に対する悩みを描いた帖。
末摘花には僧侶である兄以外に、一人だけ叔母がいて、侍従はそこの甥と関係を持っているので、末摘花と甥っ子との間で悩む。十年、光の君に忘れ去られ(中須磨・明石行の時間があるが)それでも待ち続ける末摘花。侍従の決断は?そして末摘花の決断と運命は?
はたしてこれは教訓話なのか?それとも現実に対する紫式部の皮肉なのか?コミカルという意味でおもしろい話だけれど・・・
次に「関屋」。光一行が石山寺詣でに来たとき、若い頃一度だけ関係を持った「空蝉」と光とのすれ違い。
多分、光本人を目の前にすれば絶対にこばめないと思う。私が光に指名されるとはとうてい思えないが、絶対に拒めない。
こばむのではなく、するりと逃げる空蝉。光が大臣で若い頃より自由が利かなかったのも空蝉にはよかったかもしれない。
光は牛車に文を送れど返事なし。彼女は蝉のように、抜け殻を残して去っていく。すべてから。
そして、「絵合」。光の、中年になる前の、若さからくる美しさの最後の輝き。以後は源氏の大臣として生きねばならない。若さの象徴、六条の御息所の死が、象徴的である。
政治家としての光は権中納言(元の左大臣家の中将)との駆け引きをせねばならない。なぜなら帝は「自分の子供」だから。自分の子供を守らねばならないから。
政治問題と駆け引きは、その家から出仕する女御・更衣に対する帝の寵愛がどこに向けられるか、ということによる。「帝は絵がお好き」そういうささいな(?)ことが、だから政治問題に発展する。
ある意味、このときが光のもっとも美しさが輝いた最後の瞬間だったと思う。
絵合の壮麗さは、ぜひ本書を読んでいただきたい。
「松風」。はるばる明石から京に来ようにも、田舎者である自分たちはなじめずかえってらしになると、都から少し離れた大井の邸に移り住む、明石の君と光との間にもうけた姫、そして明石の君の母。松風の音が、風流とともにわびしさをも奏でる。
ときどき(ひとによってはこれは「たまに」かもしれない)邸に訪れ、妻と濃密な時間を過ごす光。子供はかわいいものと、世俗的に娘をかわいがり、「家族」というものを初めて意識する。
だが政治的には、このままでは娘は無位無冠の腹から生まれた者になってしまう。光は決意する。明石の君も決心せねばならない・・・光は美しくある青年ではなく、すでに政治家なのだから。
最後に「薄雲」。光にとってはまさしく最愛であった藤壺の女院の死。
自分を愛さないことを憎んだ女の死。独り残された光。一緒に死にたいと思った光。
女院の死の哀しき中、帝は自分が産まれる元となった「あの日」のことを、その日女院の病の祈祷をしていた護持僧から知らされる。
光が真の父であったと。帝は、自分は”実の父”である光に「仕える」のではなく、ただ「仕えられている」という、そのことに対して深く心を悩ませる。
光にとって、「あの日」を知る者は自分と女院と、王命婦。光は命婦に詰め寄る。もちろん、命婦は否。そして、恐ろしい真実を光に告げる。
この場を貴方にどう表現して伝えればいいのか?ただ、読んでほしい。息を飲み、あるいは殺して、読んでほしい。
おそらく、これを契機に光は変わる。変わったのだと思う。それゆえに、この物語はまだ先に続く。