新訳で読んでみたい
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前世紀の二つの世界大戦、ベトナム戦争、その他あまたの戦争にまきこまれた若者の心情に差異はない。
百年近く前の戦争が舞台でありながら、全く古臭くない。瑞々しい感情はひしひしと読む者に訴えかける。
平和ボケの日本人の若者に読んでほしいと願う。
ただ、この訳では今の若者には読みづらいのでは。
新訳が待たれる一冊である。
戦場の若者
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第一次大戦、帝政ドイツの若者が西部戦線(対フランス戦)に放り込まれる。従来の戦いに比べ、毒ガス、タンク(戦車)、飛行機など新兵器が現われ戦争の様相は一変した。若者は生きるために生きる。悲惨な状況なのに挿入されるエピソードは不思議な温かみを持っている。
このような小説を生みだしながら、ドイツは第二次大戦へ突き進み又しても敗戦することになる。
ユーモラスだけど非情な戦争文学
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声高に反戦を叫ぶ作品ではない(少なくとも私はそう思う)。
しかしその説得力は凡百の反戦小説を蹴散らすに足る。だからこそナチスはこの作品を恐れたのだ。
これ以上は私の筆力で満足に伝える自信が恥ずかしながらないので、
作品本文の引用でお茶を濁させて頂く。
「(前略)出征しないでいたいと思っていた。これをするには、新兵に厳しくして、
新兵教育が得意だということだけによって達しられるのである」
「それから銃剣は肋へ刺すとひっかかるから、腹を目がけて突刺すのがもっともよろしい、
なんてことも、学校では決して教えてくれてない」
「僕は決して休暇をもらってくるんではなかった」
(休暇を取った主人公が、母親の窮状を目の当たりにすると同時に
自分が戦場でどれだけ変わってしまったかを痛感したときのモノローグ)
「どうぞ僕の寿命から二十年を君のものに取ってくれ給え。そして起き上がってくれ……
いや、それよりももっと多く取ってくれ。僕なんぞはいくら生きていたって、
はたして何をしていいかわからないのだから」
(塹壕で殺してしまった敵兵に対して)
「この世の中にこれだけの血の流れがほとばしり、
幾十万の人間のために苦悩の牢獄が存在することを、
過去千年の文化といえども遂にこれを防ぐことができなかったとすれば、
この世のすべては嘘であり、無価値であると言わなければならない」
「(前略)私はこのとおり義足をはいておりますが、今これで戦線へ行って頭を射たれたら、
木の頭を拵えさせて、軍医さんになります。終わりっ、だとさ」
本作品を真剣に、かつ楽しんで読まれた方なら
ルイ・フェルディナン・セリーヌ「夜の果てへの旅」(中公文庫)も楽しんで頂けるかと思います。
戦争のみならず世界と全ての人間に嫌気がさした若者の、救いがたい人生行路です。
すぐれた娯楽作でもある
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よく知られた、いまや古典的ともいえる小説だと思うが、初めて読んでいろんな驚きがあった。
まずこれが第一次世界大戦後に出版されていたということ。ドイツ兵士の手記という体裁で、著者が実体験した戦争の悲惨な現実を書き、そしてこれがある程度読まれていた、にもかかわらず、人々はすぐに第二次世界大戦に突入しこの本の内容と同じことを繰り返す、のみならずさらに悲惨なことを繰り広げる。人間はつくづく学習ができない。
また本書は娯楽作としても優れているということ。反戦小説というと暗い、お堅い、というイメージがあるが、10代の少年が主人公のため語り口はむしろあっけらかんとしている。軍隊ならではの固い友情や喜び、楽しみなども描かれている。これは楽しい戦記ものでもある。
だが後半になればなるほど、死と残虐さが主人公を飲みこむ。圧倒的な虚無…怒りも、悲しみも、喜びも、国も、愛も、大義も、自我も、すべては意味がなくなる。戦争においては自分の生死が、自分のものでなければ国家のものでさえない、戦場という意思なき怪物のものとなる。このニヒリズムは、水木しげるの戦記ものにも通用する。これが戦場に出た兵士たちの実感なのだろう。
反戦意識をさらに強固なものとした本
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昨日読み終えた。その生々しい表現は、オカルトとは違い、現実的で残酷である。読んで特に感じたのは、戦争によって戦死したら死んだことになり、生きて帰ってきても生気が失われることである。また、戦争経験者でしか分からない描写は、戦争文学として非常に貴重であり、記録としても貴重である。例えば、何も考えずに歩いていると、突然突っ伏して、頭上を弾丸が飛んでいくという感覚である。それは動物の本能が為させるらしい。そして戦友の死に構っていられない、質素を極めた食事、戦争独自の病気(塹壕病など)、命の助かる方法や要領など、およそ現代人には想像できない。まさに戦争は空想の地獄ではなく、現実にある地獄であることを実感した。
書き方は、おそらく戦争の実態を読者に伝えるためか分かりやすくなっている。そして主人公とその戦友との青春が、戦場で唯一人間的であるかのように書かれている。その青春を失っていく過程こそが、反戦文学と呼ばれる所以だろう。