エッセイは時代を率直に反映する
★★★☆☆
山口瞳のエッセイの主役であるサラリーマンは、かつて高度経済成長の主役でもあった。サラリーマンは社会を映す鏡であり、多くの人がそんなサラリーマン生活の悲喜こもごもに共感出来た時代があったのだ。その後エッセイは山口瞳の時代から泉麻人、さらにはナンシー関の時代へと推移する。それは、人々の共感できる対象が、社会的なものから個人的なものへ、現実社会からメディア社会へと、移りゆくさまを見事に反映している。書き手の中心が男性から女性に移っていったことも含め、エッセイは時代を率直に反映するものなのだ。
山口瞳の時代は、良くも悪しくも、男/女、おとな/こども、金持ち/庶民、あるいは会社内のヒエラルキーといった役割分担が明快で、エッセイもそうした社会規範に則って書かれている。だから、山口瞳の文章にはシニカルな部分、コミカルな部分、つまりエッセイストとしての天分が十二分に感じられたとしても、今の時代からすると、その見方がある種、封建的だったり、男尊女卑だったりするのはやむ無いことだろう。明快だった役割分担はその後、高度経済成長の終焉と呼応するかのように、その領域を曖昧模糊とさせていく。
今、山口瞳のエッセイを読むと、こんな時代があったのかという一種ユートピア的なものを感じてしまう。源氏鶏太しかり、無責任男しかり、サラリーマンが元気だった時代の作品に触れると、どうしても自分が遅れてきた者のような、その時代に自分も生きてみたかったというような、他人の芝生な気持ちになってしまう。正直、がむしゃらやモーレツは苦手だし、あっけらかんや能天気はハタ迷惑だけど、反面うらやましい気もするのだ。特にそんな時代をシニカルに見つめる山口瞳の視点ってのは、イイ。
刷り込みもあるんだろうけど、山口瞳のエッセイには柳原良平の絵がハマる。ウイスキーとキツイ煙草が大手を振ってた時代の気分をたまに味わってみるのも悪くない。
爽快!
★★★★★
山口瞳が「週刊新潮」に連載していた「男性自身」の中から、筆者が40代に書いたものを重松清が50編選んだ本。(姉妹本として熟年編もあり、そちらは嵐山光三郎が選んでいる。)巻末には重松清と連載当時に山口瞳の編集者だった面々による座談会が収録されている。その中でも語られているのが、山口瞳はテンポの作家、リズムの作家だ、ということ。この本も、それゆえに気持ちよく最後まで読めて、残るものは爽快感。内容の方はエッセイとは呼ばれていないが、そのようなもので、筆者の日常の一面が切り取られている。最後に印象に残った場面を。
人生は短い。あっというまに過ぎてゆく。しかし、いま目の前にいる電車にどうしても乗らなければいけないというほどには短くない。