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彼の生きかた (新潮文庫)

価格: ¥767
カテゴリ: 文庫
ブランド: 新潮社
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猿と生きることを選んだ男の物語 ★★★★☆
最初の方はおもしろいと思えなかったのだが、猿の餌付けをするあたりから引き込まれた。動物好きの主人公が想いをよせる幼友達の女性の心理、その女性をものにしようとする別の男の心理など、ドキドキさせられる場面が多かった。人と争うことを避け弱虫と罵られた主人公が最後に猿を懸命に守るところも感動した。
強引な展開が惜しいが、世界観がよく出ている ★★★★☆



 生来の吃音癖ゆえに対人関係がうまくいかず、引っ込み思案の福本一平。幼い頃から動物だけに心を開いてきた一平は、野生のニホンザルの研究に携わるようになる。日本で初めて、サルの餌付けを成功させることに精魂を傾ける彼の前には大資本が立ち塞がり・・・。

 この本が書かれたのは昭和50年。文庫化が昭和52年。
 30年前の作品であるから、それなりに時代意識のようなものが反映されている。終身雇用の日本企業の閉塞感、出世に汲々として上司の顔色を伺う亭主、女性の社会での扱われ方と生き方。
 更に資本主義における権力源泉である資本力に暴力を見る、この視点は、高度成長期の真っ只中にあっては貴重な警鐘でもあっただろう。

 けれどもこの物語において見るべきは、そういう時代背景の色濃さに留まっており、遠藤さんらしい筆致の見事さはあるものの、全体においては構成の深みに欠ける気がした。もちろんそれは読者の勝手な我侭であって、他の作家がこれを書いていたら「期待できる新人だ」と思っただろうけれども。しかし晩年の遠藤周作を知っている現代の読者にとっては、いささか食い足りない観は否めないだろう。

 特に事故の部分、結婚後の部分、一平の精神的成長などは、もっと重層的に描いて欲しかったという印象がある。現在の遠藤さんならば、決して事故の解決の仕方はしなかっただろう、と思うのは少し踏み込みすぎかもしれないけれど。
 朋子の心境はよく描かれていた。読後に言いようのない寂寥を覚えた。
 そういうふうに心を動かす、優れた作品だった。

強烈な問いかけ ★★★★★
例えば社会的地位、貧富の差、容姿、性格、数えあげればキリはありませんが、俗世間的に見た強い者、弱い者、
そのどちらになるか定まらない不安定な位置にある者、それぞれの苦悩が描かれています。
結局「金」「権力」が絶大な力を発揮する競争社会に生きている以上、逃げられない現実と矛盾・・・。
それゆえ、弱者として描かれている主人公の最後の決断、その姿を見送る強者(として描かれている)達の描写は、
何度読んでも胸が詰まり、涙を禁じえません。
人間社会の普遍的な問題を身近な視点で描き、いち人間としての生き方を根本から強烈に問いかけてくる作品だと思います。
異端説を宣伝する自称「カトリック」作家 ★☆☆☆☆
 遠藤周作は、「カトリック作家」ということになっています。カトリック信徒は、その公の言動において、カトリック教会の教導権の教えを否定するような言説をばらまくことはなんらゆるされていません。(教会法1369条、1371条など参照。)
 しかるに遠藤周作は例えば、

「それはこの婚姻の席でイエスが「水を酒に変えた」という象徴的な出来事の意味である。 聖書の中ではイエスの奇跡として語られているこの行為は、実はイエスと弟子達との関係を暗示しているのだ。」
(遠藤周作「イエスの生涯」新潮文庫p.39)

「イエスは群衆の求める奇跡を行えなかった。・・・子を失った母の手をじっと握っておられたが、奇跡などはできなかった。」 (同p.95)
「現実に無力なるイエス。現実に役に立たぬイエス」 (同p.191)
「現実には力の無かったイエス。奇跡など行えなかったイエス。」(同p,213)

 と、カナの婚礼における奇跡の事実性を否定し、イエスには「奇跡はできなかった」と繰り返し執拗に主張しています。すなわち、福音書における奇跡の記述はいずれも事実ではありえない、私はそのようなことを断固として否定する、と繰り返し明言しているわけです。

 いうまでもありませんが、このような解釈は過去のいかなる教会教父、教会博士によって主張されたこともありませんし、現在のカトリック教会の教えでもありません。

 第二バチカン公会議「教会憲章」58を読めば明白なとおり、ヨハネによる福音書第二章のカナの奇跡のエピソードの史実性は当然の前提とされています。

 つまり、遠藤は第二バチカン公会議の教えを攻撃しているのです。

 聖書の入門書としてはリチョッティ「キリスト伝」や、福者アンナ・カタリナ・エンメリックの著作をおすすめします。

 また、遠藤が依拠した聖書学者の見解の多くがなんら論理必然的なものでないということにかんしては、William G.Mostの著作を参照することをおすすめします。(Catholic CultureやEWTNといったサイトで公開されています。)

 また遠藤周作は「私にとって神とは」(光文社文庫)p.166、p.215でテイヤール・ド・シャルダンを絶賛していますが、ヴァチカンはこの本の初版の出版の前に二度にわたってテイヤールの著作に関する厳しい警告を出しています。

「(テイヤールの流通している諸著作が)カトリック教義に反する曖昧性や深刻な誤謬を含んでいることは十分に明白である。

それゆえ、・・・聖庁は、全ての教区司教、修道会上長、神学校校長、大学総長に、テイヤール・ド・シャルダン神父と彼の追従者の諸著作によって引き起こされている危険から、人々の精神を、とくに若い人々のそれを守るように強く勧告する。」 (WARNING REGARDING THE WRITINGS OF FATHER TEILHARD DE CHARDIN ,Sacred Congregation of the Holy Office )

 以上のようなヴァチカンからの警告にもかかわらず、またそれは現在も何ら撤回されていないにもかかわらず、遠藤周作や上智大学教授百瀬文晃師、オリエンス宗教研究所をはじめとして、日本のカトリックの中にはテイヤールの教説を支持する人々が数多く存在し、またその言説は広い影響力を及ぼしています。大変危険な状況です。

 テイヤール主義は、「進化する神」という思想を提唱している点で、神の不変性を主張するキリスト教の正統的教義と正面から矛盾するばかりでなく、神智学・ニューエイジ的疑似宗教にかぎりなく接近しています。現にニューエージャー自身が、自分たちの思想の先駆者としてテイヤールにしばしば好意的に言及しています。(ファーガソン「アクエリアン革命」実業之日本社など参照。)ニューエイジ運動は教皇ヨハネ・パウロ二世の著作「希望の扉を開く」(新潮文庫)で、「新たなグノーシス主義」として鋭く批判されました。

 テイヤール主義に関する最も徹底した批判文献としてつぎのものをおすすめしておきます。
Wolfgang Smith,Teilhardism and the New Religion (TAN Books)

清涼感のある猿とのつながりを求めた若者の話 ★★★★★
遠藤周作の小説は、清涼感がある。この作品も、その通りで、読み終わって、頭の中でじっくりと振り返ってみた小説である。
自然を破壊して開発を進める近代産業の罪、女性を物金で動かそうとする人物、愚直で真面目な青年と動物の心のつながり。
昭和の40年代の日本が舞台であるが、今もあまり変わっていないことがわかる。