日本の僧侶にとって戒律とは
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日本仏教における「戒律」の位置について歴史的な展望を得られる優れた入門書。僧侶の「身体」の規制のされ方に焦点をあわせた新しいタイプの仏教史の姿が、著者の明解な語りによりすらすらと説かれていておもしろい。
古代における戒律システムの形成を述べた後、その「戒律」の意義がいかに変質してきたのかを、前半は主に「男色」というややセンセーショナルな「破戒」の実態を明らかにしつつ解説していく。中世のパブリックな仏教を担った官僧たちのあいだでは、地位の上下を問わず「男色」がかなり普及していたらしく、それはほとんど「文化」と化していたらしい。
後半では、こうした既成仏教の「破戒」ぶりに業を煮やした誠実な僧侶たちによる革新的な運動の重要性について論じられる。原理としての釈迦信仰などに導かれながら、貞慶や叡尊といった「戒律復興」の旗手たちが、女性も含めた自戒の実習を積極的に推進し、またよみがえった「戒律」の聖性を身にまといつつ死者儀礼や土木事業や被差別民救済へと取り組んでいった歴史が熱く論じられる。また、同じく官僧たちの「破戒」の現状にうんざりしながらも、しかしむしろその「破戒」をきわめて自覚的かつ公示的に選び取った親鸞仏教の意味についても、比較考察がなされる。
こうした歴史を振り返りつつ、最後に著者は、現代における戒律復興のすすめを行う。僧侶が世俗とは明確に異なる「身体」を示してこそ、仏教の再生はありえるのではないか、と。まっとうすぎるほどまっとうな意見であり、少なくとも浄土真宗意外の僧侶はすべて、学者さんに言われるまでもなく何とかしてください、と改めて強く思ってしまった次第である。