ナツメグはいまでこそただの香辛料だが、当時のヨーロッパでは、食肉の防腐剤として、またペストや黒死病の特効薬として、黄金以上に珍重されていた。ナツメグ交易は、ルネサンス期までヴェネツィア商人に独占されていたが、16世紀初めポルトガルがインド航路を発見したことから、俄然、産地に直結しようという商人たちの動きが活発になった。大航海時代の幕開けである。17世紀前半の10年間に、イギリスが3次にわたって送り出した船は延べ12隻にのぼるが、その3隻に1隻が海の藻屑と消え、乗組員1200人のうち800人が壊血病、チフスなどの疫病で死んでいる。これだけの犠牲を払ってもなお、ヨーロッパ人たちはナツメグを諦めなかった。
まず、ポルトガルが東インド諸島のナツメグ、クローブを買い占めて巨額の富を得る。16世紀後半には、スペインがポルトガルに取って代わる。しかし、そのスペインも無敵艦隊がイギリスの「海賊」フランシス・ドレイクに破れて、東インド諸島での影響力を失っていく。そして、やってきたのが、イギリスの宿敵となるオランダだった。イギリス人とオランダ人の殺し合い、裏切り、謀略、オランダ人の原住民虐殺、拷問、奴隷狩り。疫病、飢餓、発狂しそうな孤独と恐怖、それでもナツメグを求める男たちの妄念。ナツメグ香るバンダ諸島の酸鼻な光景を、ジャイルズ・ミルトンは航海日誌、日記、東インド会社の記録をもとにして、吐き気が出るほど微細につづっている。残念ながら「(ジャワのバンダムは)東インド諸島でもっとも衛生状態のわるい町と悪評があったのは、あまり褒められたことではない」といった訳文に違和感があり、全体としてかなり読みづらい。それはそれとして、現在東南アジアと呼ばれている地域で、オランダがどのような悪行を重ねたか、手に取るようにわかる。
1654年のウィエストミンスター条約締結まで、半世紀にわたって続いた英蘭戦争は、イギリスがルン島と引き換えにオランダの植民地ニュー・アムステルダム(現ニューヨーク)を手に入れて、ようやく終った。ミルトンは、コートホープの死で「イギリスはナツメグを失ったけれど、かわりに最大のビッグ・アップルを得た(原文はthe biggest of apples)という言葉で本文を結んでいる。「ナサニエルのナツメグ」は、ルン島よりずっと高価なニューヨークのことだったのである。(伊藤延司)