胡乱なるナラティヴ
★★★★★
望月哲男新訳の『白痴』第2巻。
第1巻を読み終えてから第2巻刊行の後、1ヶ月ほど読めなかった。もう最終巻の第3巻が店頭に並んでいる。とにかく暑すぎた。ほとんどラスコーリニコフが斧を振り下ろした時分の気候。ひょっとするとあれよりも過酷な暑さではなかったか? 過去形で書いているのは、ようやく微かな秋の気配を感じないでもないからだが、昨日の宇都宮はまだまだ茹だるレベルの暑さだった・・・。
『白痴』を読むのはもう5回目か6回目だと思うが、当方の記憶力の弱さもあって相変わらず読むたびにいろんな発見がある。第2巻では、ムイシュキンがロゴージンの「くすんだ緑色」をした住まいでの再会から、ムイシュキンのホテルでの癲癇発作までのページが物凄い(p56〜125)。
ここだけでも世界文学。テイストは異なるが、『罪と罰』中で「スヴィドリガイロフの彷徨」とも言うべき彼の自殺までの描写に匹敵しないだろうか? あれより重層的な語りではあるが。
“19世紀のナラティヴに安住した辺境文学”とクロード・シモンあたりが揶揄しそうな安定しきった退屈な物語とは、『白痴』や『罪と罰』は異なるということの証左でもあろう。
ドストエフスキーの作品では、一見作者は神に見える。そう、初期作品ではその通りだし、中期でも『ステパンチコヴォ村』などはそうだ。しかし、おそらく『地下生活者の手記』から、彼の小説は一変している。それはテーマやイデオロギーではなく、ナラティヴが変わったのではなかろうか? 所謂ミステリ小説とは根本的に異なったミステリアスなナラティヴなのだ。
同時代のトルストイには、“19世紀のナラティヴに安住した辺境文学”のレッテルが妥当する。ひょっとすると20世紀のトーマス・マンでさえそうだ。しかし『地下生活者』以降、ことにラスト5の大作にはそれは相応しないだろう。