不毛な議論への警鐘として
★★★★★
筆者は実例をいくつか挙げて「discommunication(これは和製英語か?)」の「傾向と対策」を述べています。
会話のすれ違い、不毛な論争がどのように生まれ筆者自身の経験も踏まえて述べられており、興味深いです。
これら色々な場面での議論のすれ違いはつまるところ相手の話をよく聞いていないこと、十分に考えずに自分に都合の良い「物語」を作り上げ(または既存の「物語」を借りてきて)言葉を投げつけあっていること、基本的な言葉を確認しないまま議論していること、に帰因する。言われてみれば当たり前のことなのですが、これがなかなか世間では通用していない。
自分の日頃の言動を顧みて反省させられるところの多い本でした。
あと話は変わりますが、デリダの正義論についてチラチラと書かれてあったので、今度はそちらを読んでみようかと思っています。
精神的に疲れる
★★★☆☆
中身はエッセイなのだが、サブタイトルからしてもう少し堅い内容なのかと思った。
一部の知識人やネット掲示板への批判が、現れては消え、消えては現れる。本筋はそうではないのだが、とにかく目立つのだ。匿名掲示板の事は、それほど気にしなくてもいいんじゃないかと思う。
筆者が強迫神経症的だと自覚しているように、自分の周りにバリケードをつくっておいてから執拗に責め立てるのが目に付く。
軟弱者の私としては、他者に繰り返される罵詈雑言を読んでいるだけで気が滅入ってきた。夜中に隣人の喧嘩を聴いているような、あのイヤな感じにも例えられようか。
相互理解の大切さを説きながらも、バカには何を言っても通じないということをトクトクと申されているようだ。筆者のほかの本は良かったのだけれど、本書は私には合わなかった。
レビューを書くのはおこがましいが、読後の後味がよくない。そういう効果を狙った本だとすれば一本取られた感じだが。
まともに話ができるやつがいないのかという怒り
★★★★★
「哲学・思想エッセイ」と聞くと、本来は合間見えそうにないはずのその二つの言葉の合わさ
った響きが奇妙に聞こえるわけだが、読み終わった今、この本を一言で表現するならばまさに
「哲学・思想エッセイ」という言葉がピッタリくることがわかる。この本は哲学思想史を専門
とする著者が自身の身の回りでおきた「話」が通じなかったエピソードを後日談として―怒り
も交えて―語り(エッセイ)、その原因を哲学・思想の観点から考察するという形式をとって
いる。
筆者が論じる「話が通じない相手」とは、単純に耳を貸さないヤツだけでなく、一見コミュニ
ケーションが出来ているように見えても、議論は平行線をたどっているだけで、実はまったく
できていない(中島梓はそれを「コミュニケーションと言う名のディスコミュニケーション」
と呼んだ)ヤツや、相手の話している文脈のそのすべてを追うことなしに、センテンスの中の
ある一単語にだけ敏感に反応して激烈に反論してくるヤツのことでもある。そんな「話」の通
じない輩―筆者曰く「パブロフの犬」、「ワン君」―は、老若男女、どの階級、どの学歴にも
存在するらしい(この本を読んでいると、むしろ知的な階層ほど多いのではないかという気さ
えしてくる)。
筆者はこのワン君が増殖した理由を、「小さな物語」の増殖に求めている。
マルクス主義という「大きな物語」が信用されなくなった以降(ポストモダン)、みなが好き
勝手に「小さな物語」を作り始めた。その個々人の「セルフ物語」は一旦その個人の中で強固
に整合性を持ち始めると、なかなか改編できる代物ではない。さらに、その本人の中では誰も
が共有できる「大きな物語」だと思っているのだからたちが悪い。そんな異なった「物語」を
もった者同士で議論となり対立が生まれたとしても、それは弁証法のように何か発展性のある
対立にはならず、議論は結局はただのいがみ合いになってしまうのだと筆者は説く。
こんなふうに筆者は「話」が通じなくなった理由を、少々歯ごたえのある哲学史をからめて説
明してくれるのだが、本文にはたびたび彼が忌み嫌う「ワン君」たちへの忠告が挟まれる(そ
ういえば彼の『わかりやすさの罠』にもたくさんあったなあ)。いちいち挟まれているそれら
を読んでいくと、よほどこの人はネット上で嫌な思いをさせられてきたんだなあと、想像して
しまうわけである。
察するに、彼がこの本を書き上げた根本的なモチベーションになっているのは「なんでこうも
まともに話ができる/聴けるヤツがいないんだ!!」という悲壮感と怒りの気持ちだろう(筆
者は否定するかもしれないけれど)。この本が、哲学・思想オタクのためだけの閉じた内容に
なっていないのは、その悲壮感や怒りが「エッセイ」へとうまい具合に還元さているからでは
ないだろうか。
筆者本人が述べていることだが、彼は少々強迫神経症気味らしい。
今の時代、このようにまともな「話」をしようと心がける人間ほど病を患ってしまうものなの
かもしれない。
それでも”あえて”書評を書いてみる。
★★★★★
自分の知識(経験)を疑わず、それが”正”であるかのように話す「ワン君」を例にあげ、
哲学的なものも取り扱い「ワン君」がいかに”バカ”かを強調し、
「ワン君」にならない為には、
安定性と通用性のバランスをとることに耐えないといけない
と締めくくっている。
その”耐える”為の処方箋が何かないかなぁっと
模索してるだけ私は「ワン君」よりまし”?”
という疑問形に自己嫌悪。
余談ですが、
書の中に"高校の現代国語からやり直せ"と書かれており、
30歳にして必死で”現代文”の問題を
やってることにちょっと救われた。
この本を読んでそれでも書評を書ける人なんているんですか?
★★★★★
難しいことを難しく書くことならば誰にでもできます。しかし、難しいことを平易に書くことは書いていることをきちんと理解し、なおかつ本当に頭の良い人にしかできないということを表している素晴らしい本です。たとえ著すに至った動機付けが個人的な私怨に発していたとしても!それをそのまま罵詈雑言として吐き出してよかれとするならば誰にでもできます。それを咀嚼して現在の社会が陥っている問題点にまで一般化し、その原因、解決策を含めて分析し、そのツールを実際に具体例にあてはめて切れ味を試すというところまで一冊の中で提示しているまさに実践的な本だと思います。