最初に結論ありきの強引な論理展開
★★☆☆☆
横綱審議委員にさせてもらった手前、真っ向から相撲協会には対立したくない。
っていうか、テレビやその前のOL時代も男にモミ手で生き抜いてきた内舘さんが
その本領を発揮した本。他の方もお書きになっていますが、知らないことを知るのは
楽しいし、相撲について蘊蓄を傾けたい方にはお勧めでしょう。
でも、事実を積み上げて行けば行くほど「別に女も土俵に上がったっていいじゃん」
という結論が自然になってくる。
なので、この本は最初に「上がれない」っていう結論があって、無理矢理論理を
展開した印象が強いです。男社会での太鼓持ち役、どうもお疲れ様でした。
●追記:それにしても、著者のいう「穢れた人は土俵に上がれない」のなら、
野球の賭博の関係者をはじめとする角界の皆さまは、ぜ〜んぶアウト!ですね。
相撲の「神聖さ」なんて嘘くさいとずっと思っていた立場としては、今回の
騒動は誠に香ばしくて寿ぎたい気分です。
結論だけ入れ替えて、だから女も土俵に乗ってよし、としたほうがしっくりくる
★★★★☆
著者の内館牧子は女性で横綱審議委員だが、大相撲の土俵に女は乗せない、とする相撲協会を擁護するためにこの本を書いた。
相撲の発祥から、古代の「すまいの節会」、江戸時代の興行としての勧進相撲などを経て、現在の大相撲に至る歴史がまず描かれる。ふんどし姿で素手の格闘技として「すもう」は神話時代からあり、儀礼的な要素がはじめからあった。しかし、現在のいわゆる大相撲の直接の先祖は、江戸時代の勧進相撲で、興行(お金を取って見せる芸能)としての要素は当時からのもの。神社の境内を利用して催されたことなどから、次第に宗教的要素を帯びるようになる。国技となったのは、明治時代からである。国家神道と結びついた「国技」としての大相撲を、神話時代の「すまい」と結びつけて、あたかも古代から連綿と続く神聖な国技であるかのごとく、物語を作り上げたのは、相撲協会の卓抜な商業センスによるものであることが、論証される。
さらに、相撲の土俵が実は宗教的な「結界」であって、俵・土俵・房などによって多重に張り巡らされた結界の中で、神聖な宗教儀式として行われる相撲の一面が強調される。これは勧進相撲の時代から次第に発達してきた伝統的なものであるという。
また、勧進相撲の時代から、女性を相撲から遠ざけようという傾向があったことが、文献から示され、現在の大相撲が男性だけで執り行われることと関連付けられる。山岳宗教などの宗教的結界の一部は女性差別に基づくものであるが、一部は単に「修行を邪魔されないように」同性だけで集まるものだと述べられるが、相撲がどちらにあたるかははっきりしないl。
つぎに、大相撲の土俵が、場所ごとに作り直されることが明らかにされ、その破壊と再生は、機械を使わずに手作業で行い、神道儀式に似たものであることが報告される。(かつて、蔵前の国技館では、千秋楽が終わるとすぐに土俵を壊していたように思うのだが)。また、本場所前には地鎮祭に似た神迎えの儀式が土俵上で執り行われ、本場所終了後には神送りの儀式が行われる。この間の土俵は神が降りた神聖な場所である。
宗教儀礼はその核の部分を譲ってしまえば、無意味になる。何が核かはその当事者が決めるべきことで、周辺からとやかく言うことではない。当事者が変わりたいと思えば変わればいいし、変化を拒んで滅びるのも自由だ、ということが主張される。
最後に、もし相撲協会が宗教儀礼であることを主張したいなら、男性であっても正装または礼装の者以外は土俵に上げるべきではないこと、表彰式を神送りの後にすれば、女性でも土俵に上げってもかまわないのではないかと提案されておしまいである。
著者はこの見解を補強するために大学院に入って宗教学を学んだという。文献はよく調べられているが、著者の主張したいこと(土俵は結界、大相撲は宗教儀礼)を、証拠は裏切っているように思うがどうだろうか。ぼくには、結論だけ入れ替えて、だから女も土俵に乗ってよし、としたほうがしっくりくるように思えるのだが。
女性差別の根拠を「血盆経」などに求めているが、それは原因よりも結果。同質集団にとって異質な者はそれだけで穢れなのだ。家族で使う食器は他人に触らせたくない、というのと同じだ。女性にとっては男性が汚らわしいし、男性にとっては女性が汚らわしい。民族には異民族が穢れだ。
大相撲も、男同士でやっているので女が混じると喧嘩になるからやめてくれ、という、漁師が船に女を乗せないのと同じような理由だと思う。
借り物の集まりで、結局本当のところは田辺聖子さんの説の紹介
★★★★★
借り物の集まりで、結局本当のところは田辺聖子さんの説の紹介が一番ぴったりしている。
女人禁制の行事は、女性から見れば、かわいい男の姿だという視点。
本書は、田辺聖子さんの視点を紹介してもらえたことで、価値があると思う。
著者も、そこまで割り切ればよかったのにと思う。
なにが、著者をあいまいなところで留めているのかは分からない。
相撲に対する愛着なのか、自身のなにかのプライドなのか。
きっと、本当は愛すべき人なのだろうに。
内館氏の研究の成果を著す良書
★★★★★
内館氏は幼少の頃から大相撲が好きで横審にまでなられたことはつとに有名です。その内館氏が大学に入って相撲の歴史の研究の成果を纏めて上梓したのが本書です。
内館氏は女人禁制を破るのは反対の立場だというのは周知のことと思います。それを、男女平等に反するとして女も土俵に上げさせろというのが女の議員達です。その婦人議員達は女同士でグループを作り女性の為に何かをしようという議員が多く、何でも女性の味方でそうするのが当然という女性にだけ票を入れられたような感じのする政治家ですが、このような人達に比べ内館氏の様な同性に疎まれても異性の尊重すべきは尊重するという姿勢です。こういった人こそ真の男女平等の出来る人で、今の婦人議員らは女尊男卑主義者と思われても仕方ありません。これからの時代内館氏のようなタイプの方が多く現れると社会が成熟すると思います。
尚本書は女はなぜ土俵にあがれないのかという題ですが、それ以外にも相撲通でも初めてしるような相撲の歴史が著述してあり、改めて伝統文化としての相撲を知ることが出来ると思います。
相撲界の現状を浮き彫りにする
★★★☆☆
土俵に女が上がるべきではない背景を,多角的に考察した修士論文の再編集。
いろいろな人の説を,羅列的に並べただけで,著者の考察の軸が,歴史にあるのか,社会学的にあるのか,文化/社会人類学的にあるのかがぼやけたままなものの,著者自身の問題意識がハッキリしているので,ひとつのまとまりは確保されている。ただ,習俗や世論の形成についての一般概念の理解があまりに浅く,意義ある議論にまでは到達できていない。と,このように,まさに修士論文のレベルで,研究としては三流のレベルを超えない。
が,しかし,それでもなお本書が読まれる価値が十二分にあるのは,この程度の論にさえ,相撲協会はまともに同意も反論もできないだけしか自らのあり方を考究してこなかったことを,露呈させるからであり,著者は横綱審議委員としてきわめて重要な仕事を果たしたといえよう。
とはいえ,人文学の素養ある者が本著者の意志を受けて,一生を賭けて相撲を本格的研究対象としたくなるような魅力が,今の大相撲界にあるかといえば疑問である。相撲ファンとしては,本書がきっかけとなって,大相撲研究にかすかな灯火でも点らんことを願わずにはいられない。
そんな意味でとても重要な一冊。さすがに読みやすい。