事実誤認もあるが、真実味のある話
★★★★★
モーツァルトだけでなく、ベートーヴェンもまたメイソンリー・シンパだったことは、以前から確実視されている。ただモーツァルトと違って、裏が取りにくい。しかし、この仮説の上にのって、彼の手紙の誤綴りまで突っ込んで、当時の時代背景と日程細部を追っていくと、おおよその絵図が見えてくる。近世ヨーロッパにおける芸術家たちの情報網的な位置づけは、ダヴィンチの昔から、ヨタでは済ませない問題だ。
ただ、これを「諜報員」と呼ぶのはどうか。彼が属していたロッジとの関係において、自主的に行動していたようで、自由主義者のパトロンに雇われていたわけではあるまい。
また、この本は、大枠において、フリーメイソンリーに関する三流のヨタ本に基づく事実誤認も多い。当時のドイツのメイソンリーの大本は、イングランド大ロッジではない。すでにドイツ国民大ロッジが設立されており、さらに上部のプロシア宮廷直轄「三つの地球」ロッジの下に支配され、反ナポレオン的に操作されていた。これに対し、フランス啓蒙主義百科全書派「ヌフスール(九姉妹神)」メイソンリーと関係する親ナポレオン派のロッジは大きく反発し、ウィーンの「アジア盟友団」を中心に、ユダヤ系金融業者網との連携を図っていた。ここにおいて、フランクフルトの金融関係者たちは、反派と親派との二股がけが多く、メイソンは、だれも彼らを本気では信用していない。だいいち、この街は、あくまで反ナポレオンのブランシュヴァイク公による傭兵調達資金源であり、これに対抗する親ナポレオンの拠点は、ライン対岸の独立マインツ共和国だった。そして、こここそ、まさに洗礼者ヨハネを祭る歴史的な街でもある。くわえて、この本では、どこで聞きかじってきたのか、メイソンリーは13を好む、という話が繰り返し出てくる。しかし、ドイツ・メイソンリーの符丁は11、elf(自由・平等・博愛の頭文字)だ。
いずれにせよ、「不滅の恋人」が自由の女神そのものだ、という結論は、これまでの多くの恋人当て本に比して、決定的な説得力がある。そもそも通俗的な恋人当ての流行そのものが、ナポレオン敗北後の反動体制の中で、べートーヴェンの親ナポレオン的な政治活動を隠蔽するために仕組まれた巧妙な工作だ、というのも、おもしろい見方だろう。当時の緊迫した政治情勢も知らず、わけのわからん少女コミックのような話に酔っている青木某女史に読ませてやりたいものだ。
面白くて、一気に読んでしまった。
★★★★★
秘密諜報員ベートーヴェンというタイトルから、
始めは荒唐無稽な推測からのトンデモ本だと思って読み出したが、
意外に、理論的で、充分に納得のいく内容であり、
ベートーヴェンが生きた時代を深く理解できた気がする。
ベートーヴェンについてCDなどの解説を少しでも読めば、
パトロンとして、ヴァルトシュタイン、リヒノウスキー、ロプコヴィッツ、ルドルフ大公などは
それぞれに献呈された曲とともに、おなじみの名前だと思う。
そのパトロンたち(=自由主義者たち)がナポレオンの大陸封鎖やロシア遠征に伴って、
ベートーヴェンを諜報員として使い、秘密裏に連絡を取り合ったという。
交響曲第3番「英雄」は、ナポレオンに献呈されたが、
ナポレオンが皇帝の座についたことに腹を立てたベートーヴェンが、
その献呈を取りやめたという話は、どこにでも書いてあるが、
作者はこれも嘘であると断言し、理論的に説明している。
ベートーヴェンと言えば、苦虫を噛み潰したような肖像画とともに、
実らぬ恋ばかりして、音楽に一生を捧げた偏屈者、しかも名声を得てからも貧困に苦しんだ、
などというイメージがあったが、本書を読むと、イメージは一新される。
今までに解明されていない「エリーゼのために」のエリーゼの件、
その楽譜に隠された秘密など、作者の想像に過ぎない部分もあるものの、
下手な推理小説よりもずっと面白く一気に読み終えてしまった。
ただ、秘密諜報員という書き方は、単にスパイとして権力者に使われただけのようなイメージが強く出る。
ベートーヴェン自身も、自由主義者として活動しているので、
秘密諜報員というのは、タイトルとしてどうかと思った。
リベラリスト、ベートーヴェン
★★★★☆
ベートーヴェンの遺品から見つかった『不滅の恋人』宛の手紙。
この手紙は、そこに書かれた日付と曜日から1812年に書かれたことが判っている。
ナポレオンのロシア遠征の年だ。
この作品で作者は『不滅の恋人』の手紙は、メッテルニヒの秘密警察による検閲を避けるためにそう偽装されていただけで、実際は反ナポレオン・守旧派の動きを伝えるための手紙であったという大胆な仮説を立てた。
『不滅の恋人』が誰であるかという問題については、青木やよひ氏が郵便馬車の時刻表などを駆使して推理した著作がある。本作品で古山氏は青木氏の結論から一歩踏みだし、一ひねりしてみせる。
そして自由主義者ベートーヴェンを活写する。
タイトルの「秘密諜報員」というのはあまりに扇情的すぎて滑稽だが、内容はもっと説得力があるものだ。
難点は、手紙がなぜベートーヴェンの遺品から発見されたのか、という点について歯切れが悪いところが気になる。