期待したほどではない
★☆☆☆☆
著者の他の作品とくらべて、たしかに内容的には読みやすいものの、そのぶんいささか物足りなさを感じる。どの話もそこそこ楽しめるが、読み終わったあとに特別心に残るものがないのが残念。軽い内容のものを寄せ集めて若者向けに仕立て上げた本というだけあって、どうしても安易な印象が拭えない。前の作品のような力強さを求めてこの作品を読むと、その差にがっかりするかもしれない。またすべてのレビューに星が5つとなっているが、実際にこの本を読んでみると、ほかのレビューがあまりにも過剰に絶賛しすぎていて、これらの意見はかえって参考にならないことがわかる。レビューの星の数をそのまま鵜呑みにしないほうがよいという意味でも、ここはシビアにやはり星1つ。
著者の試みのひとつの到達点
★★★★★
旅を通じて獲得される言葉と食などに関する感覚の質的な変換が,世界観を根本的に変えてしまう可能性を秘めていることを,美しい文で綴ったエッセー集である。管啓次郎が五感をフル活動させて思索し,行動し,記述する,文字どおりの「試み」を通じて生まれた文章は,読む者を惹きつけ,これも文字どおりトリップさせてしまう。そのスタイルは,自ら失敗の記録(正確な引用ではないかもしれない)と表現した,最初のエッセー集「コロンブスの犬」以来一貫しているといえようが,この「ホノルル,ブラジル」はおそらく,今までのどのエッセー集よりも読みやすい。著者自身,教職についてからの著作であって,学生を意識して書き,「これまででもっとも愛想のいい本」になったと述べているが,でもそれだけではなく,これは著者の試みのひとつの到達点であって,そのことが読者にとって分かりやすい文章を生んだような気がする。だから著者は「今後はもう,こうした本は書かないだろう」とも述べているのには何となく納得できた(ただしこの「こうした」が具体的に何を意味しているのか正確には分からないのだが)。
どこから読んでもよいこのエッセー集をぼくは最初から順番に読んでいき,あとがきを兼ねた最終章の一つ前の黒田龍之助との対談を最後の楽しみにとっておいた。著者の対談を今まであまり目にしたことはなかったのだが,系統はことなるものの言葉に熟達した2人の軌跡が交叉したのだから痛快である。前の章までとは少し異なった観点から語学の楽しみについて知ることができるという意味で,読者にとってはお得な構成だと思う。
ほのぼの、ぶらぶら
★★★★★
この本には目次も、章題も、まえがきもない。どこからでも読める「愛想のいい」本。しかし、このいわば案内表示のない39の断章群は、単に日常を気軽に綴った身辺雑記ではない。五感と語感を幾重にも挑発する比較詩学の思考と、ひとつの言葉にすべての世界の交響を聞き取ろうとする「オムニフォン」の想像力にあふれた「試み」としてのエッセイだ。アメリカ南西部、ハワイ、カリブ海域、ブラジル、オーストラリア、イギリス、マレーシア、日本といった場所に、たえず他の場所、別の記憶が重ねられ、例えば言葉という舌の活動と味覚という舌の冒険の交差が紡がれていく。旅の達人である著者は、けっして難解な議論や抽象的な思惟に耽らず、身体と言語の移動のなかで研ぎ澄ませてきた感覚と確かな知識にもとづいた言葉を重ねている。その自由闊達な生きた言葉は、不自由を堪えしのぶばかりの凡夫に、爽快な開放感と高揚感をもたらしてくれた。
『ホノルル、ブラジル』というタイトルは、楽園リゾートのイメージといくぶん韻を踏んだような語感があいまって、いかにも心躍る内容を端的に伝えていよう。またそれは、例えばハワイのなかのポルトガルの痕跡をたどる断章や、ブラジルとホノルルの意外な接点を幻視した断章に見られるように、異なる場所と記憶を自在に渡る著者の試みを象徴しているようにも思われる。さらにまたそれは、「ほのぼの」を動詞のように誤用した「ほのる」と、「ぶらぶら」を動詞のように誤用した「ぶらる」とが組み合わされているのかもしれないという奇想をも許してくれるだろう。「正統的な言語の混成的・逆転的使用」としてのピジンやクレオールの営みこそが著者を旅へと駆りたててやまないのだから。「灰色の島国」で虚空を見つめる者ならば、汲めども尽きぬ滋養豊かなこの果実に食らいつかずにはいられないはずである。
クレオールを体験
★★★★★
著者は「クレオール」文学者。クレオールとは狭い意味では混成言語のこと。転じて文化一般の混淆性。どんなに純粋であったり単一であったり見える文化でも、実は人類の移動と衝突と混淆の産物なのだ、という視点から文化現象を見ようとする人々がクレオール文学者(だと思う)。複数の言語を自在に操るこうした人々は、普通の人間が感じないものを感じる。主な舞台はハワイと南北アメリカ。そこで様々なものを食べ、人と出会い話す。舌で人類の移動の痕跡を味わいわけ、耳で衝突の残響を聞き分ける。モノを触るとそのモノの過去が見える超能力をサイコメトリングと言うらしいが、ちょうど人類の移動の記憶をサイコメトリングしている感じだ。話はハワイとブラジルだけに止まらない。世界中をうろうろする。自分の記憶をひっくり返す。一つ一つのエッセイは短くて読みやすい。ところがそれが全部集まっても、著者がどんな人間なのかいまいち分からない。でもよく考えてたら、人の細胞は地球上の様々な場所の生物や植物で、人の心は無数の他人たちとの出会いでできている。どんな人間かなんて分かりっこない。文化はおろか一人の人間だってクレオールなのだ、とそういうことを言っている、のか単にまとまりをつける作業が面倒だったのかは分からないが、ただ読み終わると、身も心もにぎやかな感じになっていたことは確かだ。
タイトルの下に小さく「honolulu,braS/Zil」とある。最初は何とも思わなかったが、読後に見返してふと思った。「braS/Zil」はホノルルとブラジルをサイコメトリングして浮かび上がってきた、「ユーラシア大陸の端にしがみついている小国」を暗示しているのではないか、と。なるほど、これは多分、著者からのちょっとした超能力者気分のプレゼントだろう。ちなみにこの本の中で著者は、オカルトめいたものが大嫌いだ、と書いている。オカルトめいた書評でごめんなさい。
エッセーは響く
★★★★★
新しい世界へ飛び出していくことの快さと楽しさに満ちている、これが読後の感想だ。
本書は、短い文に1から39までの番号がふられ束ねられたエッセー集だ。
実にフットワークの軽い文章(それは、スポーティーと形容したくなるほど)で語られるのは、砂漠の話から、言語の話、旅に書評、さらにページをめくると料理のレシピまで!
読み終わった後に納得するのは、この世には本書も被いきれない知らないところがまだまだたくさんあるだろうということ、そして知らない世界があるということが実は可能性にあふれたとても楽しいことだということ。
知らない世界を知り体験することがどれだけ素晴らしく心躍ることであるかということを再認識させてくれる本なのだ。
上述したような多岐にわたる内容の文が並列される本書は、色々な思索、感情、体験、そして様々な言語、文体、表現が混じり合う。
「考えること、感じること」を、「書き、表すこと」。本書に見られるこの両者のダイナミックな繋がりが、さらにその動的な繋がりを自由に並べることが、エッセーという表現形式の可能性の一つなのだろう。
一つの文から次の文へと読み手を連れ回すその慌ただしいような「動き」は、ある一つの文をそのほか全ての文と繋げるものにし、文同士の相互の働きかけによりテクスト内に情感を生み出すものにしていると思う。
それは、一つの文の中に他の文が響いていると捉えてもいいだろう。
ある言語の中に他言語が響いていることを「オムニフォン」と呼ぶとのこと(詳しくは本書「23」を参照)。
このエッセーは、もしかしたらオムニフォン的だと言えるのかもしれない。
「エッセーが『試み』を意味するのであれば、それは文と文がどんな風につながりうるのかを探りつづけなくてはならない」(本書「39」から引用)と著者は記す。
エッセーの可能性を探りつづける著者は、また別の作品でエッセーの新たな形を見せてくれるだろう。