上巻の後半から面白くなってきた。クロスオーバー的なの好きです
★★★★☆
こりゃ面白い。体裁は軍記もの、内容はミステリ、設定はSF。もしかして、さらには純文学の匂いもする。
上下巻でかなり長い小説、この上巻では、最初の半分ぐらいまで、戦艦「橿原」やそれに乗り組む搭乗員たちの紹介で、謎らしい謎は起きない。しかし、後半に入ると、不可思議な乗組員の殺害、失踪といった事件が次々と起こる。
橿原自体の任務についても、ようやく明らかにされるが、物語が進むにつれ、謎は深まるばかり。
上巻だけではなんとも評価しづらいけど、私はこういうジャンルをクロスオーバーしているのは好きだ。
刺激的な悪ふざけ
★★★☆☆
日本右翼の矛盾を悪ふざけしながらよく突いている。半世紀前だったら確実に不敬罪でとっ捕まっているだろうなってレベルの悪ふざけ。笑いのつぼは人によって違うだろうから、パロディの面白さは保証できないけど、滑稽な国粋主義も今現在、戦争している国では現実的なのかもしれないと思うと考えさせられるものがある。また、国内で流行している「ウヨク」に対して、日本右翼の矛盾点を突きつけているようでもある。
天皇との関係、実社会から乖離した場所で精神論へ特化している様、議論のすり替え等の矛盾点をよく突いているのだけど、少し論点から外れて、だらだらとしている部分は、全体が難解だけに万人にはウケないだろうな。このテーマについて言えば、痛烈な問題提起もおふざけ度合いも、生業としている浅羽通明の方が一枚上手だ。
夢中になれるのはやはり奥泉作品。
★★★★☆
待ち望んでいた最新長編。
読み始めると最後まで一気に読んでしまうのはほかの奥泉作品と同じ。
文章の力だと思う。
奥泉作品に慣れている身としてはラストは十分に消化できる。でも…
SFチックな仕掛けが、この作品を生かすことになったのか、ちょっと疑問に
感じたのも事実。
ほかのレビュアーの方も指摘されている通り、奥泉作品は「このジャンル」と
規定するのがすごく難しくて、人に勧めても「それミステリ?純文学?」と聞かれて
「うーん、純文学の要素もあるしミステリーも入ってるけど、時々SFも…」
なんて言ってるうちに尻すぼみになってしまうのが常なのである。
すごくおすすめなのにもどかしい。
ご本人は面白くなければ小説ではない、という立場のようだし、
ジャンル分けは無意味とは思うけれど。
個人的には福金豊が好きでした。
次の新作が読めるのはいつだろうか。
この本が読まれないのは残念
★★★★★
ミステリーファンから見ればミステリーでなく(かつては「葦と百合」とかいい作品があったのに)、純文学ファンからすれば純文学でなく(芥川賞当時は期待させたのに)、難解すぎてエンターテインメントとしても成立していない(「鳥類学者のファンタジア」とかもうちょっと軽くて面白かったのに)。
小説という「ジャンル」に関する著者の認識が、一般読者とは乖離しているのではなかろうか。著者の考える「小説」は自由度の高い表現手段で、それは著者の好きなジャズにも共通するものかもしれない。クラシックやフォークその他様々な音楽を自由に取り入れ発展したジャズは、一般聴衆の支持を失い、コアなファンのみのものとなった。著者はジャズと同じ規模の読者マーケットを獲得できればいいと思っているかもしれないが、ジャズの中でもかなり非主流派。これでは友達にも家族にも薦められない。。
著者は以前の作品でも捏造された過去をめぐっての物語を描いてきたが、本作では、これまでのような私的な物語でなく、太平洋戦争と戦後日本といった大テーマを持ち込んできた。いかにも本当らしく書かれた多くの歴史小説の欺瞞に比べれば、捏造された過去をめぐっての捏造された物語だ、ということが明快で、いかにも誠実な書きぶりではあろうが、多くの読者は違和感を覚えたまま、この物語に没入できることなく終わるのであろう。
この超問題作にレビューが乏しいのは・・・
★★★★☆
予想通り、各紙誌の書評では碌なものが出ていない。幾つかのものでは、プロの書評家でも、戸惑ったようなものが多い。褒めているのか、あるいは実はよくわからないのかというものもある。一般読者にとっては、これはミステリじゃあない、純文学にしてはSF過ぎるといったコテコテ「古典的」な感想が大半であろう。
奥泉光が『石の来歴』で登場したとき、この人こそ文学の希望の星だと思ったものだ。その後、『ノヴァーリスの引用』を読んでさらに確信した(こちらのほうが『石の来歴』より早い作品)。『ノヴァーリス』は、瞠目反・文学賞(選者は島田雅彦だったと思う)という輝かしい(?)栄誉を担ったものだった。
希望の星は、その後、漱石の『猫』や『坊ちゃん』のパロディのようなミステリを書いているが、評者の視界からは外れ(単に他のを読んでいたのです)、『モーダルな事象』『バナールな現象』でまた視界に捉える(厳密には発表順に非ず)。『鳥類学者のファンタジア』は途中で放り出したが、『浪漫的な・・』で接近し、本書『神器』で最接近するところとなった。
本作品は、これぞ小説であり、小説でしか出来ないことを追究した稀なる成果である。
もっと「お話」を作ることが巧みなエンタメ作家であれば面白かったのになどという評言は、このチャレンジングな作品には妥当しない。読むことの危機、物語ることの危機、ジャンル自体の危機。それはハッキリと文学の危機であるが、それをあくまで軽妙なタッチで引き受けているのは、この小説家以外に一体誰がいるというのか? コアな読者に受けるように奮闘する上手い作家は幾らもいるが、生が形式との桎梏のうちに喘いでいる事態を、全的に描き得るのは小説でしかあり得ない。このジャンルの危機こそ、我々の生の危機そのものなのであると言うことを改めて想起させてくれる作家が一体どれだけいるのか?
レビューの数を見ても、大して売れないだろう本作の読者は、それだけロイヤルティの高いコアな読者と言えるかも知れないが、彼らも戸惑っているのであろう。その事態は、所謂コアな読者と人気作家の構図とは異なるのである。
こんなレビューごときで喋々できる作品は、どだい大したものではないことは明らかであるが。