主人公ぼくは、同じアパートの1階上に住む同年(1925年生まれ)のフリードリヒ・シュナイダーと仲良し。親同士も家族ぐるみの付き合いをする仲である。そのぼくたちは幼年時代から互いの家を行き来し、1931年にはともに小学校に入学し、幸せな日々を過ごすが、1933年にアドルフ・ヒトラーがドイツ帝国首相になった後、ユダヤ教信者であったシュナイダー一家も迫害を受けるようになる。その後シュナイダー一家が遭遇した悲しい経験、たとえばシュナイダーさんが郵便局員を辞めさせられたり、フリードリヒがユダヤ人学校に転校しなければならなくたったり、ユダヤ人商店や住居が集団攻撃を受けたり(1938年)、ぼくとフリードリヒが一緒に遊びにいった先で心無い待遇を受けたり(ユダヤ人の強制改名、ユダヤ人映画館入場禁止)、ラビをかくまったシュナイダー氏が逮捕されたり、フリードリヒが死んだりといった出来事を主人公、ぼくの目を通して描いている。
私は、「裁判(1933)」「先生(1934)」「理由(1936)」の章が好き。「理由(1936)」の章で、国家社会主義ドイツ労働党の党員となったぼくの父親がドイツからの出国を勧めたとき(1936年)に「人間は、その間に、少しは理性的になったでしょうからね」「あなたが考えられるようなことは起こりませんよ。この二十世紀の世の中では起こりません!」と答えたシュナイダー氏だったが、「ある訪問(1941年)」の章では、「あなたの考えられたとおりになり・・・」という言葉を残して拘束されていく。
第2次世界大戦後60年経った現在、はたして人間は少しは理性的になったのだろうか。宗教・人種・国や地域などが異なるという理由での排斥・暴行・戦争はいまだ続いている。日本の人々も、軍隊を持つ前に今一度立ち止まって、「われわれは少しは理性的になったのだろうか」、考える必要があると思う。