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あのころはフリードリヒがいた (岩波少年文庫 (520))

価格: ¥734
カテゴリ: 単行本
ブランド: 岩波書店
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少年だからこその日常 ★★★★★
 当時大人であれば潤色し、あるいは政治色を絡めもしたであろう題材を、少年であったがゆえの正確無比な視線と記憶で描き出した本作品は、巧まざる文学の体をなしてわれわれの肺腑を抉る。
 少年の日常から描き出されていくがゆえの罪のなさ、だがふと気付くと、その日常は引き返せないような大変な段階に立ち至ってしまっている。この感触は一連の野坂昭如作品に通底するところがある。
合法的に「中世」おくりになった幼なじみ ★★★★☆
まず巻末の年表にくぎづけになった。今までこの手の本は、何冊か目にしてきたが。
これほど被害者目線で詳しく書かれたモノは、はじめてだ。人間の権利が、
いかにして合法的に、はぎ取られていくのか。その様が、ありありと記されてる。

これは、もう「年月日表」だな。ユダヤ人に関する法律が、つぎつぎと出来てる。
…マジかよ、と背筋が凍った。…で物語を読むと、魔女狩りみたいな
その冗談みたいな法律が。具体的に頭の中で映像化され…。今なお頭の中に、
こびりついて離れない。身分証が…。ベンチが…。あの星が…。
加害者になってしまう普通の人 ★★★★★
 ヒトラーの時代。同じアパートに住み、同い年なので家族ぐるみ親しくなったユダヤ人の少年フリードリヒと家族におこる変遷が、主人公の少年を通して描かれます。そのころ少年だった著者自らの体験から綴られた物語です。
 戦争体験を綴るとき、ややもすれば感傷的になり、加害者であったとしても「仕方がなかった」「ほんとうはそうしたくなかった」などの言葉が出てきがちではないでしょうか。生き延びた自分を納得させ、保っていくために、そう言ってしまうことも必要なのだと思います。でも、このお話は淡々と、そういう言葉をださないように書かれています。それだけに、戦争が一部の人だけでなく、普通の人たちをどのように動かし、普通の人たちにどのように動かされていくのか、がはっきりと描き出されています。
 お話の中心であるユダヤ人の扱いについても、街でユダヤ人を差別する言葉が聞かれるようになると、なにかおかしいと思いながらも、皆自分たちが仲間はずれになることの怖さに差別に加担するようになっていきます。その変化が穏やかに、少しずつ進んでいく様が描かれています。特に恐ろしく感じたのは近くのユダヤ人の商店が襲撃され、破壊されるのを見ているうち、主人公の少年が自分もその中に入ってしまうところ。「全員が一緒になってやっていた。すべてが奇妙に気持ちを高ぶらせた。」この高ぶりは主人公がまだ少年であったからというわけでもないでしょう。そんな少年も、友人のユダヤ人少年のアパートの部屋が同じように壊されたときには破壊に参加できず、「泣くばかりだった」という一面を持っているのです。 
 日本でも、何かの事件があったとき、一部の差別される人を確たる証拠もなく攻撃したことがあります。現代でも、花見や祭りの興奮で喧嘩をしてしまう人はいます。すぐに殺傷事件に至ってしまう昨今の状況にも通ずる「加害者になってしまう普通の人」というものを教えてくれるお話だと思います。
 「こんなこともあった」と過去の「お話」にしてしまわず、どうしていったらよいのか、を問い続けなければならないのでしょう。このお話にはその答えは書かれていません。 

 著者は続編として、ヒトラー・ユーゲントに入った頃の「ぼくたちもそこにいた」、従軍から敗戦までの「若い兵士のとき」を著しています。日本の、同時代を描いた手記などと比較しても、戦争に向ってしまう人間の心理状況には国を超えて共通するものがあることが、この3作品を読むと見えてくるようです。
 少年向きなので文字も大きくわかりやすいですし、短時間で読み終えてしまえますが、読み取れる内容は重く複雑です。
「人間は、その間に、少しは理性的になったでしょうからね」 ★★★★★
主人公ぼくは、同じアパートの1階上に住む同年(1925年生まれ)のフリードリヒ・シュナイダーと仲良し。親同士も家族ぐるみの付き合いをする仲である。そのぼくたちは幼年時代から互いの家を行き来し、1931年にはともに小学校に入学し、幸せな日々を過ごすが、1933年にアドルフ・ヒトラーがドイツ帝国首相になった後、ユダヤ教信者であったシュナイダー一家も迫害を受けるようになる。その後シュナイダー一家が遭遇した悲しい経験、たとえばシュナイダーさんが郵便局員を辞めさせられたり、フリードリヒがユダヤ人学校に転校しなければならなくたったり、ユダヤ人商店や住居が集団攻撃を受けたり(1938年)、ぼくとフリードリヒが一緒に遊びにいった先で心無い待遇を受けたり(ユダヤ人の強制改名、ユダヤ人映画館入場禁止)、ラビをかくまったシュナイダー氏が逮捕されたり、フリードリヒが死んだりといった出来事を主人公、ぼくの目を通して描いている。

私は、「裁判(1933)」「先生(1934)」「理由(1936)」の章が好き。「理由(1936)」の章で、国家社会主義ドイツ労働党の党員となったぼくの父親がドイツからの出国を勧めたとき(1936年)に「人間は、その間に、少しは理性的になったでしょうからね」「あなたが考えられるようなことは起こりませんよ。この二十世紀の世の中では起こりません!」と答えたシュナイダー氏だったが、「ある訪問(1941年)」の章では、「あなたの考えられたとおりになり・・・」という言葉を残して拘束されていく。

第2次世界大戦後60年経った現在、はたして人間は少しは理性的になったのだろうか。宗教・人種・国や地域などが異なるという理由での排斥・暴行・戦争はいまだ続いている。日本の人々も、軍隊を持つ前に今一度立ち止まって、「われわれは少しは理性的になったのだろうか」、考える必要があると思う。

読む者の胸に迫る挿話の数々 ★★★★★
1925年生まれの「ぼく」(作者と同じ年の生まれ)とユダヤ人一家シュナイダー家の男の子フリードリヒの家族ぐるみの交流と、フリードリヒが辿る運命を描いた著者36歳のときの作品。ラストは有名ですが、普通の人々が迫害する側にまわる過程が、ナチスによる迫害の年代史に沿って淡々と描かれています。
― 極端な不況下の中、ナチ党員になれば仕事にありつけ家族を守ることができるという状況で人はどのような選択をするか。
― 何気なくユダヤ人の友達を連れて参加した少年団の集まりが、ある日突然ユダヤ排斥集会と化していたとき、自分は何が出来るか。
― 教室にユダヤ人の子を置いておけなくなったとき、去っていく少年に対して教師として何が言えるのか。
読む者の胸にひとつひとつ迫る挿話。家族同士の楽しい付き合いやフリードリヒの淡い初恋(それを自ら諦める少年の思いは!)がよく描けているだけに、
17歳の少年のやるせない死に胸がつまります。同じ時代に不条理の世界に置かれた多くの人々のことを思わざるを得ない傑作です。